西宮 海清寺 (1394)2010年6月5日 西国志

西宮 海清寺 (1394)
西宮 海清寺 (1394)
西宮の禅寺 海清寺は
禅宗 妙心寺派の歴史のなかで重要な位置をしめる。
妙心寺の疎開先であり 妙心寺の復興を担う人々を育てる
拠点だったのです。

鎌倉時代から室町時代にかけて北条氏や足利氏と結びついて
繁栄した五山の禅林に対して京都御所との結びつきが
つよかった大徳寺と妙心寺は林下と呼ばれ苦難の時代を
すごしたのですが このさんざんな時代に
大徳寺と妙心寺は次の時代に飛躍するエネルギーを用意したともいえます。

海清寺は京都の千本松原に退蔵院を開いた
妙心寺第三世無因宗因禅師の開山(1394)。
禅師の頂相(ちんそう)を所蔵する。
現在 幹周り6mを超す大楠は このときに植えられたものといわれる。
ちょうど このころ足利義満の妙心寺への弾圧が始まる。
義満は五山の僧侶を優遇し 大徳寺と妙心寺を忌避した。

義満が妙心寺の取り潰しに動く以前に
無因宗因は妙心寺を離れ西宮に拠点を移していた。
以後 禅師はここを拠点とする。

義満の寺領没収によって荒廃した妙心寺を復興するのは
海清寺にあった無因宗因のもとに参禅した日峰宗舜であり
そのあと応仁の乱で焼失した妙心寺を再興する雪江宗深も
海清寺の住持をつとめている。

歴史を見ると五山は室町幕府の衰退とともに衰える一方
在野の大徳寺と妙心寺は飛躍的に勢力をのばしていく。

江戸時代に白隠が出てからは妙心寺派は他派を圧倒する。


「働かざるもの食うべからず」のもとになった
「一日不作 一日不食」という言葉を残した百丈懐海から
無因宗因の師弟関係の主要な禅匠をたどると

百丈懐海 黄檗希運 臨済義玄 
揚岐方会 白雲守端 五祖法演 円悟克勤 

円悟克勤は碧岩録の著者である。
彼の門下から大慧宗杲と虎丘紹隆の二神足が出るが
大慧派は貴族化して衰退する。

虎丘紹隆 応庵曇華 蜜庵咸傑 松源崇岳 運庵普巌 虚堂智愚 

松源崇岳の兄弟弟子に破庵祖先がいて
この流れから無準師範(仏鑑禅師1178〜1249)が出る。
その弟子に画僧牧谿がいる。

無準は東福寺の開祖 円爾弁円の先生であり
東福寺に華麗な肖像画が伝わる
日本に渡来した禅匠たちでは
鎌倉に建長寺を開いた蘭渓道隆も無準に師事したことがあり
兀菴普寧(ごったんふねい) 無学祖元も
円爾とともに無準の門下である。

円爾の甥 南浦紹明(大応国師)は入宋して虚堂智愚に師事し
松源派の禅を日本に伝えた。

大応の弟子に大徳寺開山の大燈国師(宗峰妙超)があり
大燈の弟子に妙心寺開山の関山慧玄がいる。

この三人の流れは頭文字をとって応燈関と呼ばれる。

慧玄は その死にあたり 旅立ちの姿 雲水の装束をつけて
庭で立ったまま死んだと伝えられる。

このあと妙心寺二世 授翁宗弼 三世 無因宗因 となる。

授翁宗弼の俗名は妙心寺の寺伝では
南朝の忠臣 万里小路藤房ともいわれる。

無因宗因は五山の一角である建仁寺の出身。
文学的な五山をでて峻烈な応燈関に参じた。





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