明石川の支流、伊川上流に神戸市で唯一の国宝建築物がある。太山寺。 寺伝によると鎌足の長男、定恵が霊亀三年(716)に開いた。藤原氏の絶頂期に書かれた源氏物語が明石に好意的なのもこういうかたちでの藤原氏との縁によるものか。
播磨は、明石以西に新羅、高句麗色が濃いのに対し明石川周辺は百済色がつよい。 百済に好意的で、百済を継承したとも思っていた?平安朝と相性がいい。
伝説によると百済聖明王が王子の童男行者を派遣したとき彼は明石川のすぐ西、船上に上陸し、丹生山(たんじょうさん)に明要寺を開いた。
敏達5年には百済人250人が平野の西戸田の村人の案内で明石河をさかのぼり淡河川に出て今田に定着した。そのあと、今田の東の谷が埋まっていたのをとりのぞき東西4キロ、南北3キロの淡河湖を排水したという。
今に伝わる播磨國風土記では明石がまったく抜け落ちているが、風土記原文には何か平安時代の藤原氏に都合の悪いことでも書かれていたのだろうか。
播磨は、明石以西に新羅、高句麗色が濃いのに対し明石川周辺は百済色がつよい。 百済に好意的で、百済を継承したとも思っていた?平安朝と相性がいい。
伝説によると百済聖明王が王子の童男行者を派遣したとき彼は明石川のすぐ西、船上に上陸し、丹生山(たんじょうさん)に明要寺を開いた。
敏達5年には百済人250人が平野の西戸田の村人の案内で明石河をさかのぼり淡河川に出て今田に定着した。そのあと、今田の東の谷が埋まっていたのをとりのぞき東西4キロ、南北3キロの淡河湖を排水したという。
今に伝わる播磨國風土記では明石がまったく抜け落ちているが、風土記原文には何か平安時代の藤原氏に都合の悪いことでも書かれていたのだろうか。
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