フィクションのなかにこそ歴史の真実がある by 紫式部
2020年3月9日 歴史物紀などは、たゞ、片そばぞかし。これらにこそ、みちみちしく、くはしき事はあらめ
「紀」は、日本書紀。日本紀の局(つぼね)と呼ばれた紫式部は正史に精通していた。「片そば」とは、傍らにあるものを意味して主流ではないことを強く示唆している。少なくとも誉め言葉ではない。
「これら」は小説などの虚構の世界。こちらのほうが「みちみちしく」「くわしい」というのである。「みちみち」は「満々」とも「道々」とも書かれ、相当の誉め言葉。「これはウソです」と言っているもののほうが何がしかの真実につながっている??
歴史の本流は正史と称するものの外に滔々と流れている。
「紀」は、日本書紀。日本紀の局(つぼね)と呼ばれた紫式部は正史に精通していた。「片そば」とは、傍らにあるものを意味して主流ではないことを強く示唆している。少なくとも誉め言葉ではない。
「これら」は小説などの虚構の世界。こちらのほうが「みちみちしく」「くわしい」というのである。「みちみち」は「満々」とも「道々」とも書かれ、相当の誉め言葉。「これはウソです」と言っているもののほうが何がしかの真実につながっている??
歴史の本流は正史と称するものの外に滔々と流れている。
倭人伝 卑彌弓呼(素)と古事記 比売許曽
2018年1月22日 歴史物卑弥呼の邪馬台国と戦った狗奴国は魏志倭人伝の原文で、倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、と出てきて、その王の名は「卑彌弓呼」説と「卑彌弓呼素」説がある。
倭人伝の読み方の多数説では「素不和」を、「素より不和」と読むので人名の一部にはならない。ここでは、人名に含める内藤湖南説が前提。
私が気になったのは「いごっそう」という言葉と「卑彌弓呼素」が、ikosso とpim ikkoso で、かなり近いこと。音素として母音にはさまれた子音は濁って発音される音韻則もある。「もっこす」の語尾も「こそ」の変形と見ることもできる。
「卑彌弓呼素」と「比売許曽」は音が非常に共通するが、狗奴王は倭人伝に男と明記されている。比売許曽は古事記にアカルヒメの別名とあって女性。 「こそ」は名前の一部として、男にも女にも使えるらしい。そこで「御前」の字をあててみた。
比売許曽は、姫御前になって、ぴったり。狗奴王はピーミック御前にしときましょうか。
追記
卑彌弓呼素の「弓呼素」は、「国主」でもいいかもしれない。卑彌がピンからキリまでの「ピン」だとすると、第一国主。大国主?
倭人伝の読み方の多数説では「素不和」を、「素より不和」と読むので人名の一部にはならない。ここでは、人名に含める内藤湖南説が前提。
私が気になったのは「いごっそう」という言葉と「卑彌弓呼素」が、ikosso とpim ikkoso で、かなり近いこと。音素として母音にはさまれた子音は濁って発音される音韻則もある。「もっこす」の語尾も「こそ」の変形と見ることもできる。
「卑彌弓呼素」と「比売許曽」は音が非常に共通するが、狗奴王は倭人伝に男と明記されている。比売許曽は古事記にアカルヒメの別名とあって女性。 「こそ」は名前の一部として、男にも女にも使えるらしい。そこで「御前」の字をあててみた。
比売許曽は、姫御前になって、ぴったり。狗奴王はピーミック御前にしときましょうか。
追記
卑彌弓呼素の「弓呼素」は、「国主」でもいいかもしれない。卑彌がピンからキリまでの「ピン」だとすると、第一国主。大国主?
4世紀というと「謎の4世紀」といわれ、卑弥呼と倭五王の時代にはさまれて史料の少ない時代。
この時代の伊賀に1991年8月8日の中日新聞が「日本最古の庭園発見」と報じた庭があった。
池泉回遊式といわれる日本庭園の原点ともいうべき庭が、その時代としては最大級の建物跡とともに出土した。
古墳時代の初期にあって伊賀が先進地帯であったことを示唆する。
http://inoues.net/ruins2/jyonokosi.html
この時代の伊賀に1991年8月8日の中日新聞が「日本最古の庭園発見」と報じた庭があった。
池泉回遊式といわれる日本庭園の原点ともいうべき庭が、その時代としては最大級の建物跡とともに出土した。
古墳時代の初期にあって伊賀が先進地帯であったことを示唆する。
http://inoues.net/ruins2/jyonokosi.html
船上城跡に家から歩いて行った。16世紀(1585)に摂津高槻から国替えで明石の大名となった高山右近が、明石川を数キロさかのぼったところ(枝吉 えだよし)にあった城下町を海沿いに移したときのものです。城下に配置されたいくつかの寺や町割りは残っていますが、城の遺構は何も残っていません。ここにありましたという案内板があるばかり。
阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の石碑
2017年3月9日 歴史物京都清水寺境内に東北地方に攻め寄せた大軍を何度も翻弄した蝦夷の首領たち、阿弖流為と母礼の石碑がある。
清水寺は征夷大将軍 坂上田村麻呂が彼の好敵手だった蝦夷の首長たちの鎮魂のために建立した。
789年(延暦8年)、征東大将軍 紀古佐美は、5万の兵を率いて北上川流域(日高見国)に侵攻。ここに、13年にわたって3人の将軍が交代する戦争が始まった。
この時、初めて蝦夷の首領「阿弖流為:アテルイ」が記録に登場します。
アテルイは記録によっては悪路王とも書かれる。
悪路は首領を意味する「あじ(按司)」または「あるじ(主)」の当て字か?
大墓公(おおものきみ)、赤頭王との称もある。
このときの朝廷軍は巣伏(すぷせ)の戦いに完敗し敗走。
794年、征夷大将軍 大伴弟麻呂は、10万もの大軍を進めたが、朝廷軍 再び敗退。
797年、坂上田村麻呂が征夷大将軍となる。
彼は渡来人、阿智使主(あちのおみ)の子孫。
背が高く、がっしりした体格で
肌はピンク色、毛はブロンド(赤面黄鬚)
田村麻呂は801年に桓武天皇から節刀を賜わり少数精鋭の軍をもって東北に侵攻した。
802年には。ついにアテルイの本拠地に入り、胆沢城を築く。
アテルイは。盟友モレとともに田村麻呂に投降。
田村麻呂は朝廷に2人の助命を嘆願したが、貴族たちの会議はこれを拒絶。
802年8月13日、2人は河内国椙山(現大阪府枚方市)で処刑された。
蝦夷の勇者たちは死んだが、彼らの後には前九年、後三年の役の英雄 安倍貞任・宗任が続き、その後、独立を回復した東北は奥州平泉王国を成立させ、馬と黄金の国として繁栄した。
清水寺は征夷大将軍 坂上田村麻呂が彼の好敵手だった蝦夷の首長たちの鎮魂のために建立した。
789年(延暦8年)、征東大将軍 紀古佐美は、5万の兵を率いて北上川流域(日高見国)に侵攻。ここに、13年にわたって3人の将軍が交代する戦争が始まった。
この時、初めて蝦夷の首領「阿弖流為:アテルイ」が記録に登場します。
アテルイは記録によっては悪路王とも書かれる。
悪路は首領を意味する「あじ(按司)」または「あるじ(主)」の当て字か?
大墓公(おおものきみ)、赤頭王との称もある。
このときの朝廷軍は巣伏(すぷせ)の戦いに完敗し敗走。
794年、征夷大将軍 大伴弟麻呂は、10万もの大軍を進めたが、朝廷軍 再び敗退。
797年、坂上田村麻呂が征夷大将軍となる。
彼は渡来人、阿智使主(あちのおみ)の子孫。
背が高く、がっしりした体格で
肌はピンク色、毛はブロンド(赤面黄鬚)
田村麻呂は801年に桓武天皇から節刀を賜わり少数精鋭の軍をもって東北に侵攻した。
802年には。ついにアテルイの本拠地に入り、胆沢城を築く。
アテルイは。盟友モレとともに田村麻呂に投降。
田村麻呂は朝廷に2人の助命を嘆願したが、貴族たちの会議はこれを拒絶。
802年8月13日、2人は河内国椙山(現大阪府枚方市)で処刑された。
蝦夷の勇者たちは死んだが、彼らの後には前九年、後三年の役の英雄 安倍貞任・宗任が続き、その後、独立を回復した東北は奥州平泉王国を成立させ、馬と黄金の国として繁栄した。
古代史 百済 新羅 倭
2017年3月9日 歴史物パソ通時代 歴史フォーラムへの投稿記事? 詳細不明
古墳時代中期 百済・新羅と倭の関係
日本では、人質というと服属儀礼のような印象があります。三国史記を読んでの印象では、三国における人質は服属の証しというより王族による命がけの外交を意味するように思われます。「質」という言葉は、担保を意味しますがまさに相手国から軍事的援助を引き出す前提としての担保を意味します。「質」を受け入れておいて、軍事的支援はしないとなると、銀行が担保だけとって、貸し出しはしないというのに等しい違約行為のようです。
ここで百済と新羅の倭での外交活動を推測しますと高句麗の圧迫に対する軍事支援とともに、百済・新羅が任那(加耶)諸国を蚕食するにあったって倭が介入しないことを目的としたと思われます。
百済の場合は、概ね、この外交目的を達したようです。
405年 腆支王即位
晋書安帝紀(413年)に倭と高句麗の入貢記事があります。新羅の未斯欣は、402年~418年まで倭に滞在しています。16年といえば当時の人の平均寿命からして人生の相当な部分を倭ですごしたことになります。3年間は百済の腆支の滞在期間と重なります。腆支が帰国して百済王となったことも承知していたことと思われます。
417年、未斯欣を派遣した実聖王は、未斯欣の兄、納祇によって殺されます。倭は、このとき未斯欣を新羅王として擁立しようとして失敗したと推定されます。
三国史記 新羅本紀及び朴堤上列伝による
421年 倭王讃 遣使
125年 倭王讃 遣使
420-428 ? 腆支王没
430年 倭王讃 遣使
438年 倭王讃の死、弟の珍 遣使
腆支王の時代に倭と百済の関係が飛躍的に発展した一方、倭と新羅との関係が決定的に悪化した時期でもあります。
古墳時代中期 百済・新羅と倭の関係
日本では、人質というと服属儀礼のような印象があります。三国史記を読んでの印象では、三国における人質は服属の証しというより王族による命がけの外交を意味するように思われます。「質」という言葉は、担保を意味しますがまさに相手国から軍事的援助を引き出す前提としての担保を意味します。「質」を受け入れておいて、軍事的支援はしないとなると、銀行が担保だけとって、貸し出しはしないというのに等しい違約行為のようです。
ここで百済と新羅の倭での外交活動を推測しますと高句麗の圧迫に対する軍事支援とともに、百済・新羅が任那(加耶)諸国を蚕食するにあったって倭が介入しないことを目的としたと思われます。
百済の場合は、概ね、この外交目的を達したようです。
405年 腆支王即位
晋書安帝紀(413年)に倭と高句麗の入貢記事があります。新羅の未斯欣は、402年~418年まで倭に滞在しています。16年といえば当時の人の平均寿命からして人生の相当な部分を倭ですごしたことになります。3年間は百済の腆支の滞在期間と重なります。腆支が帰国して百済王となったことも承知していたことと思われます。
417年、未斯欣を派遣した実聖王は、未斯欣の兄、納祇によって殺されます。倭は、このとき未斯欣を新羅王として擁立しようとして失敗したと推定されます。
三国史記 新羅本紀及び朴堤上列伝による
421年 倭王讃 遣使
125年 倭王讃 遣使
420-428 ? 腆支王没
430年 倭王讃 遣使
438年 倭王讃の死、弟の珍 遣使
腆支王の時代に倭と百済の関係が飛躍的に発展した一方、倭と新羅との関係が決定的に悪化した時期でもあります。
旧明石郡(現在の神戸市垂水区、西区、明石市)では明治以降、イギリスから大口径の鋳鉄管を輸入し、全国でも有数の疎水工事が行われるが、その先駆けというべきものが江戸時代にある。林崎疎水である。村々が連携して大規模な工事をした様が堂々たる漢文で綴られ巨大な碑文にきざまれている。
以下 碑文の縦書きを横書きにし、旧字を新字に一部変更。ふたつ みっつ転写ミスもありそう。
林崎庄内諸村田水不足有池矣而不停豬以故苗不碩小旱輙不登百姓疾苦久之明暦三年冬十月野ヒ上組代官和坂村伊藤次郎左衛門及庄屋和坂村甲谷五郎兵衛伊藤傅兵衛鳥羽村岸本参入夫林村伊藤六兵衛隅谷七兵衛石井六郎右衛門小網喜兵衛東松江村實安傅右衛門西松江村岩井三郎兵衛藤江村神足多兵衛伊藤次郎右衛門胥議圖穿渠引赤石川上流畜水於池以利漑浸當是時和坂村有工師山崎宗左衛門者頗善心計乃令測地高下以為可引押部川入西戸田村中閘口歴印路村中村上津橋村注平太口乃後状聞故鎭公 松平山城侯請興人徒為渠即遣有司審問伊藤及甲谷岸本等僉日渠就水不注罰我以嚴刑不悔也遂立約録呈乃許之於是穿渠自中閘口抵平太口長二千九百五十六歩廣五尺以翌年萬治元季戊戌夏四月成果水不填閼池扨禾大熟渠成三歳上下頼其利 侯甚喜之毎歳給功干夫糧十斛脩溝堰不廢壊其券見在和坂村又以宗左衛門特有勞令子孫為嫡者免治渠役券在其家焉 嗣君日向候時寛文十一年辛亥火禾鳥羽新田村庄屋岩佐三右衛門請引林崎渠因令有司穿渠廣加於故二尺合為七口水利益饒 侯乃賜伊藤及甲谷山斥本等十三人中谷新田五反九畝拾四歩供林崎渠之費且 命異(日得替之浚汝等聞諸本鎭世ヒ勿絶云寶永四季丁亥夏四月号鎮公 松平武衛君以林崎渠於民便欲引水灌西浦邊野ヒ上二部旱扨田乃設新閘口於黒田村渠廣加於故三尺穿白平太口而下是為新渠又於平太口分定水口為故渠六尺新渠三尺中疇四尺一寸六分乃令新渠諸落凡脩閘之費出三之一渠事無小大一以林崎為準使庄屋為其保納券有司乃賜其券於剏故渠者繕治伏樋溝橋以石 命黒田常本西戸田印路中村上津橋六村民自今而後勿有生事以害水利云其券亦在和坂村焉是歳甲寅秋和坂村伊藤治兵衛鳥羽村岸本清右衛門新田村岩佐三右衛門林村伊藤彌兵衛小川徳左衛門伊藤善七郎東松江村大喜多善右衛門西松江村松尾五郎兵衛藤江村山内三右衛門伊藤利八郎諸庄屋請邦美為之記且告日斯渠也 山城侯與諸前 武衛君弘諸後 二賢之仁民也深矣不可以不傅焉邦美既善其報徳之有誠又信王政樂利之果不可誣也於是乎書
年保十九年甲寅火木七月 赤石儒臣梁田邦美謹撰
右林崎渠記總八百四十言皆實録也其所謂毎歳給功干夫糧十斛者於渠事為最便断乎不可廢矣佗日必以斯言徴焉
享保廾年乙卯秋八月 郡代井上新助實政
以下 碑文の縦書きを横書きにし、旧字を新字に一部変更。ふたつ みっつ転写ミスもありそう。
林崎庄内諸村田水不足有池矣而不停豬以故苗不碩小旱輙不登百姓疾苦久之明暦三年冬十月野ヒ上組代官和坂村伊藤次郎左衛門及庄屋和坂村甲谷五郎兵衛伊藤傅兵衛鳥羽村岸本参入夫林村伊藤六兵衛隅谷七兵衛石井六郎右衛門小網喜兵衛東松江村實安傅右衛門西松江村岩井三郎兵衛藤江村神足多兵衛伊藤次郎右衛門胥議圖穿渠引赤石川上流畜水於池以利漑浸當是時和坂村有工師山崎宗左衛門者頗善心計乃令測地高下以為可引押部川入西戸田村中閘口歴印路村中村上津橋村注平太口乃後状聞故鎭公 松平山城侯請興人徒為渠即遣有司審問伊藤及甲谷岸本等僉日渠就水不注罰我以嚴刑不悔也遂立約録呈乃許之於是穿渠自中閘口抵平太口長二千九百五十六歩廣五尺以翌年萬治元季戊戌夏四月成果水不填閼池扨禾大熟渠成三歳上下頼其利 侯甚喜之毎歳給功干夫糧十斛脩溝堰不廢壊其券見在和坂村又以宗左衛門特有勞令子孫為嫡者免治渠役券在其家焉 嗣君日向候時寛文十一年辛亥火禾鳥羽新田村庄屋岩佐三右衛門請引林崎渠因令有司穿渠廣加於故二尺合為七口水利益饒 侯乃賜伊藤及甲谷山斥本等十三人中谷新田五反九畝拾四歩供林崎渠之費且 命異(日得替之浚汝等聞諸本鎭世ヒ勿絶云寶永四季丁亥夏四月号鎮公 松平武衛君以林崎渠於民便欲引水灌西浦邊野ヒ上二部旱扨田乃設新閘口於黒田村渠廣加於故三尺穿白平太口而下是為新渠又於平太口分定水口為故渠六尺新渠三尺中疇四尺一寸六分乃令新渠諸落凡脩閘之費出三之一渠事無小大一以林崎為準使庄屋為其保納券有司乃賜其券於剏故渠者繕治伏樋溝橋以石 命黒田常本西戸田印路中村上津橋六村民自今而後勿有生事以害水利云其券亦在和坂村焉是歳甲寅秋和坂村伊藤治兵衛鳥羽村岸本清右衛門新田村岩佐三右衛門林村伊藤彌兵衛小川徳左衛門伊藤善七郎東松江村大喜多善右衛門西松江村松尾五郎兵衛藤江村山内三右衛門伊藤利八郎諸庄屋請邦美為之記且告日斯渠也 山城侯與諸前 武衛君弘諸後 二賢之仁民也深矣不可以不傅焉邦美既善其報徳之有誠又信王政樂利之果不可誣也於是乎書
年保十九年甲寅火木七月 赤石儒臣梁田邦美謹撰
右林崎渠記總八百四十言皆實録也其所謂毎歳給功干夫糧十斛者於渠事為最便断乎不可廢矣佗日必以斯言徴焉
享保廾年乙卯秋八月 郡代井上新助實政
道後温泉に建てられていたという石碑、伊予湯岡碑は六朝風の漢文で綴られていた。碑は失われたが、いくつかの書物に引用されている。『釈日本紀』『万葉集註釈』『伊予国風土記逸文』
古代の日本で、この文章が書けたのかと疑われるような名文。温泉を楽しんでいると書かれているのは聖徳太子と、その師で高句麗僧の恵慈、葛城臣(烏那羅)。
「法興六年(596年)十月、歳丙辰にあり。我が法王大王と慧慈の法師及葛城臣と、夷与の村に逍遥び、正しく神の井を観て、世の妙しき験を歎きたまひき(法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験)」と始まる。
聖徳太子を「我が法王大王」と賛美するのは太子の領国であった伊予ならではのこと。
碑の本文
山岳(やま)の巖崿(いはぎし)を窺ひ望みて、反(かへ)りて子平(しへい)のごと往(ゆ)かまく冀(こひねが)ひ、椿樹(つばき)は相廕(あひおほひ)て穹窿(おほぞら)なし、実(まこと)に五百(いほ)つ蓋(きぬがさ)を張れるかと想ふ。臨朝(あした)に鳥啼きて戯(たはぶ)れ哢(さへづ)る。何ぞ乱(さや)げる音(こゑ)の耳に聒(かしま)しきを暁(さと)らむ。丹(に)の花は葉を巻(あつ)めて映照(てりは)え、玉の菓(このみ)は葩(はなびら)を弥(おほ)ひて井に垂る。其の下を経過(へす)ぎて優(ゆた)に遊ぶべし。
窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊
かなり前にコピーした読み下し文と現代語訳を貼り付けました。
山や岡の巌の崖を望んで、六朝の詩人、子平の詩にあるように登っていけたらという思いにとらわれる。椿の木は互いに覆い合って無数の絹傘を張ったようである。朝には鳥が鳴いてたわむれ、さえずるがその鳴き声もやかましくは感じられない。赤い花は緑の葉を集めて照り映え、玉のような果実は花びらを覆って、温泉の上に垂れている。この見事な椿の木のもとに、ゆったりと遊びたい。
石碑は、地震で倒壊したとも言われています。
古代の日本で、この文章が書けたのかと疑われるような名文。温泉を楽しんでいると書かれているのは聖徳太子と、その師で高句麗僧の恵慈、葛城臣(烏那羅)。
「法興六年(596年)十月、歳丙辰にあり。我が法王大王と慧慈の法師及葛城臣と、夷与の村に逍遥び、正しく神の井を観て、世の妙しき験を歎きたまひき(法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験)」と始まる。
聖徳太子を「我が法王大王」と賛美するのは太子の領国であった伊予ならではのこと。
碑の本文
山岳(やま)の巖崿(いはぎし)を窺ひ望みて、反(かへ)りて子平(しへい)のごと往(ゆ)かまく冀(こひねが)ひ、椿樹(つばき)は相廕(あひおほひ)て穹窿(おほぞら)なし、実(まこと)に五百(いほ)つ蓋(きぬがさ)を張れるかと想ふ。臨朝(あした)に鳥啼きて戯(たはぶ)れ哢(さへづ)る。何ぞ乱(さや)げる音(こゑ)の耳に聒(かしま)しきを暁(さと)らむ。丹(に)の花は葉を巻(あつ)めて映照(てりは)え、玉の菓(このみ)は葩(はなびら)を弥(おほ)ひて井に垂る。其の下を経過(へす)ぎて優(ゆた)に遊ぶべし。
窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊
かなり前にコピーした読み下し文と現代語訳を貼り付けました。
山や岡の巌の崖を望んで、六朝の詩人、子平の詩にあるように登っていけたらという思いにとらわれる。椿の木は互いに覆い合って無数の絹傘を張ったようである。朝には鳥が鳴いてたわむれ、さえずるがその鳴き声もやかましくは感じられない。赤い花は緑の葉を集めて照り映え、玉のような果実は花びらを覆って、温泉の上に垂れている。この見事な椿の木のもとに、ゆったりと遊びたい。
石碑は、地震で倒壊したとも言われています。
戦前の神戸にはサッスーン一族など、有力なユダヤ系市民がいた。欧州からシベリアを経由して日本にやってきたユダヤ人難民の8割近くが神戸に身を寄せたのは、このような事情による。
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2015年秋の朝日新聞記事
第2次世界大戦中、外交官だった故・杉原千畝氏が発給した「命のビザ」でナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ難民を、神戸で 支えた人たちがいた。米国 のホロコースト博物館でボランティア講師をしている ユダヤ人男性とその妻が27 日、神戸を訪れ、当時の支援者の娘らに感謝を伝えた。 「あなたたちの支援を永久に忘れません。心の底からありがとうと伝えます」 米国に住むサイ・スタットマウアーさん(72)とジョアンさん(71)夫妻は、神戸市灘区の筒井篤子さん(91)らに語りかけた。夫妻は杉原氏のビザで救われた先人の足跡をたどり、ゆかりの人に謝意を伝えたいと来日した。1940年、リトアニア領事代理だった杉原氏は、ユダヤ難民に外務省の指示に反して日本通過ビザを発給。6千人ともいわれる人が欧州から福井・敦賀にたどり着いた。このうち約4600人が米国などへ渡る前、ユダヤ人コミュニティーがあった神戸に一時滞在したとされる。
筒井さんの父、故・斉藤源八さんは当時、今の神戸市長田区にあった教会の牧師 斉藤さんらはユダヤ難民にリンゴを配るなどの支援を続けたという。当時は学生だった筒井さんは、「父はユダヤの人たちが国を持てるよう祈っていました。 私も当時、神戸港から出航するユダヤの人を教会の人たちと見送りました。迫害から逃れて神戸に来たユダヤの人たちはとても朗 らかでした」
ユダヤ難民の大半は41年秋ごろまでに出国。翌年春に斉藤さんは 特高警察に逮捕され、その後に教会も閉鎖された。
だが、神戸でのユダヤ難民支援について神戸市が まとめた市史に記述はなく公的な記録はほとんど残されていないという。神戸の ユダヤ人コミュニティーを 研究し、両者の面会を橋渡しした元神戸女子大非常勤講師の岩田隆義さん(74)は「証言者も少なくなり、ユダヤの人たちが神戸に残したかすかな痕跡は今たどらなければ失われる」と訴える。
(大川洋輔、金井和之)
父親が神戸でユダヤ人の世話をした筒井篤子さんと、戦前の写真を見ながら交流するユダヤ人夫妻27日午後、神戸市中央区、 水野義則撮影。 神戸に逃れてきたユダヤ人にリンゴを配る牧師たち(斉藤真人さん提供)
「大戦中 ユダヤ難民支えた神戸へ」2015.10.28 wed 朝日新聞 p37
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2015年秋の朝日新聞記事
第2次世界大戦中、外交官だった故・杉原千畝氏が発給した「命のビザ」でナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ難民を、神戸で 支えた人たちがいた。米国 のホロコースト博物館でボランティア講師をしている ユダヤ人男性とその妻が27 日、神戸を訪れ、当時の支援者の娘らに感謝を伝えた。 「あなたたちの支援を永久に忘れません。心の底からありがとうと伝えます」 米国に住むサイ・スタットマウアーさん(72)とジョアンさん(71)夫妻は、神戸市灘区の筒井篤子さん(91)らに語りかけた。夫妻は杉原氏のビザで救われた先人の足跡をたどり、ゆかりの人に謝意を伝えたいと来日した。1940年、リトアニア領事代理だった杉原氏は、ユダヤ難民に外務省の指示に反して日本通過ビザを発給。6千人ともいわれる人が欧州から福井・敦賀にたどり着いた。このうち約4600人が米国などへ渡る前、ユダヤ人コミュニティーがあった神戸に一時滞在したとされる。
筒井さんの父、故・斉藤源八さんは当時、今の神戸市長田区にあった教会の牧師 斉藤さんらはユダヤ難民にリンゴを配るなどの支援を続けたという。当時は学生だった筒井さんは、「父はユダヤの人たちが国を持てるよう祈っていました。 私も当時、神戸港から出航するユダヤの人を教会の人たちと見送りました。迫害から逃れて神戸に来たユダヤの人たちはとても朗 らかでした」
ユダヤ難民の大半は41年秋ごろまでに出国。翌年春に斉藤さんは 特高警察に逮捕され、その後に教会も閉鎖された。
だが、神戸でのユダヤ難民支援について神戸市が まとめた市史に記述はなく公的な記録はほとんど残されていないという。神戸の ユダヤ人コミュニティーを 研究し、両者の面会を橋渡しした元神戸女子大非常勤講師の岩田隆義さん(74)は「証言者も少なくなり、ユダヤの人たちが神戸に残したかすかな痕跡は今たどらなければ失われる」と訴える。
(大川洋輔、金井和之)
父親が神戸でユダヤ人の世話をした筒井篤子さんと、戦前の写真を見ながら交流するユダヤ人夫妻27日午後、神戸市中央区、 水野義則撮影。 神戸に逃れてきたユダヤ人にリンゴを配る牧師たち(斉藤真人さん提供)
「大戦中 ユダヤ難民支えた神戸へ」2015.10.28 wed 朝日新聞 p37
尼崎は平安時代の遊女記などを見ると、古代には大層栄えたようです。
戦国期には堺の繁栄に押されて目立たなくなりますが江戸時代になると摂津国西部は尼崎藩が支配するようになります。
豊臣政権と江戸時代にまたがって尼崎藩を維持した建部氏は、後に兵庫県西部 林田に転封されましたが、建部の名前からは近江一ノ宮、大津市の建部大社が思い浮かびます。
その大津からは尼崎藩で最も著名な殿様 戸田氏鉄がやってきます。
戸田氏は、その後、大垣に転封されました。
兵庫県南部から淀川をさかのぼり琵琶湖を経て大垣に至る線は物流だけでなく人の交流も活発だったようです。
戦国期には堺の繁栄に押されて目立たなくなりますが江戸時代になると摂津国西部は尼崎藩が支配するようになります。
豊臣政権と江戸時代にまたがって尼崎藩を維持した建部氏は、後に兵庫県西部 林田に転封されましたが、建部の名前からは近江一ノ宮、大津市の建部大社が思い浮かびます。
その大津からは尼崎藩で最も著名な殿様 戸田氏鉄がやってきます。
戸田氏は、その後、大垣に転封されました。
兵庫県南部から淀川をさかのぼり琵琶湖を経て大垣に至る線は物流だけでなく人の交流も活発だったようです。
大徳寺の開祖 宗峰妙超 (大燈国師 播磨国龍野出身)は長期にわたり乞食行を実行した自由人であった。朝廷の要請で嫌々 大寺院の創始にかかわったふしもある。
その遺戒に「一人あり、野外に綿絶し、一把茅底、折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、専一に己事究明する者は、老僧と日日相見、報恩底の人なり」というものがある。寺院に所属せず、野に伏し草の根を煮て暮らすといえど、まことに禅の道を求める者は、私と日々まみえているに等しい親愛なる修行者なり...とでもいうものだろうか。
大徳寺は その歴史を通じて室町幕府の保護を返上したり
紫衣事件で江戸幕府と衝突したり(沢庵 出石出身)と幕府権力には相当反抗的である。
逆に大徳寺を「天下無双の禅苑」として待遇した後醍醐天皇や
皇室出身とされている一休さん (第47代首座)
現在の勅使門の寄進者 後水尾天皇などにみられるように
幕府権力が圧倒的であった時代でも大徳寺は天皇家寄りであった。
東瀬戸内を代表する戦国大名であった三好氏や
千利休をはじめとする堺の町衆と大徳寺の関係も密接である。
三好義継が建立した大徳寺聚光院(じゅこういん)には
三好長慶と千利休の墓が並ぶ。
これは長慶が創建した堺の龍興山南宗寺(なんしゅうじ)が
利休が禅の修業をしたところであり さらに利休の最初の奥さんは
長慶の妹であったという縁による。
長慶は十代から近畿有数の戦国大名として活動し
最初の天下人ともいうべき地位にのぼりつめながら
長男の急死にショックをうけ 心を病んで40過ぎで没した。
そのほかにも大徳寺には織田信長 石田三成など
非業の死をとげた人たちの墓や
豊臣秀次(三好信吉)の遺品ともいうべき唐門が存在する。
ここは死後のアジール(駆け込み寺)というべきか。
大徳寺 瑞峯院の石庭は昭和の作庭家 重森三玲の作品。
三玲もまた 京都の庭つくりの大御所 植治(小川治兵衞)の作庭思想にかなり批判的であったひとである。
大徳寺のバックボーンには多数派(これが「普通」という姿勢)への反骨精神があるのかもしれない。
そうえいば江戸幕府に弾圧された女歌舞伎の創始者 出雲阿国の墓も大徳寺高桐院
龍寶山大徳寺領について
大徳寺開祖 宗峰妙超の母は播磨の豪族 赤松円心の姉であり、父系は龍野の浦上庄の名前を冠する浦上氏。後醍醐天皇が認めた最初の大徳寺領のひとつも浦上庄である。
浦上氏は 後に岡山県で戦国大名となる
彼らは室津から牛窓の海域を中心に海沿いに展開した東瀬戸内の勢力といえる。
浦上氏の領国は五大老のひとりになる宇喜田家に引き継がれた。
大徳寺は浦上庄以外にも本龍野付近に小宅庄を持っていた。
揖保川左岸には大徳寺領小宅庄・二条院領弘山庄・法隆寺領斑鳩庄が並ぶ。
播磨には龍野以外に明石の大徳寺領林崎庄の名前が見える。
(林崎 「はやしさき」の「は」は、マルハの「ハ」 日本有数の水産会社 発祥の地)
大徳寺領の分布を見ると
播磨 京都 琵琶湖東岸 岐阜の長良川・木曽川の間
九頭竜川流域などが古い。
後醍醐天皇が雲林院の地を寄進している。
後醍醐天皇在位中の上皇のひとり
北朝の花園上皇は伴野庄(信濃国佐久郡)
と下総葛西御厨を永代大徳寺領として寄進
新田義貞は三方西荘(播磨国宍粟郡安積保)を大徳寺に寄進した。
「あずみ」という地名は海洋系の豪族の存在を強く示唆する。
近江国犬上郡西今村(現 彦根市西今町)
美濃国厚見郡長森庄
紀伊国高家荘
これは御坊市の高家王子?
洛中土御門四町町 太秦村 浄土寺村
などにも細かく大徳寺領が分布していた。
記録に残る大徳寺領以外にも
一時的に有した庄は多数あったと思われる。
その遺戒に「一人あり、野外に綿絶し、一把茅底、折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、専一に己事究明する者は、老僧と日日相見、報恩底の人なり」というものがある。寺院に所属せず、野に伏し草の根を煮て暮らすといえど、まことに禅の道を求める者は、私と日々まみえているに等しい親愛なる修行者なり...とでもいうものだろうか。
大徳寺は その歴史を通じて室町幕府の保護を返上したり
紫衣事件で江戸幕府と衝突したり(沢庵 出石出身)と幕府権力には相当反抗的である。
逆に大徳寺を「天下無双の禅苑」として待遇した後醍醐天皇や
皇室出身とされている一休さん (第47代首座)
現在の勅使門の寄進者 後水尾天皇などにみられるように
幕府権力が圧倒的であった時代でも大徳寺は天皇家寄りであった。
東瀬戸内を代表する戦国大名であった三好氏や
千利休をはじめとする堺の町衆と大徳寺の関係も密接である。
三好義継が建立した大徳寺聚光院(じゅこういん)には
三好長慶と千利休の墓が並ぶ。
これは長慶が創建した堺の龍興山南宗寺(なんしゅうじ)が
利休が禅の修業をしたところであり さらに利休の最初の奥さんは
長慶の妹であったという縁による。
長慶は十代から近畿有数の戦国大名として活動し
最初の天下人ともいうべき地位にのぼりつめながら
長男の急死にショックをうけ 心を病んで40過ぎで没した。
そのほかにも大徳寺には織田信長 石田三成など
非業の死をとげた人たちの墓や
豊臣秀次(三好信吉)の遺品ともいうべき唐門が存在する。
ここは死後のアジール(駆け込み寺)というべきか。
大徳寺 瑞峯院の石庭は昭和の作庭家 重森三玲の作品。
三玲もまた 京都の庭つくりの大御所 植治(小川治兵衞)の作庭思想にかなり批判的であったひとである。
大徳寺のバックボーンには多数派(これが「普通」という姿勢)への反骨精神があるのかもしれない。
そうえいば江戸幕府に弾圧された女歌舞伎の創始者 出雲阿国の墓も大徳寺高桐院
龍寶山大徳寺領について
大徳寺開祖 宗峰妙超の母は播磨の豪族 赤松円心の姉であり、父系は龍野の浦上庄の名前を冠する浦上氏。後醍醐天皇が認めた最初の大徳寺領のひとつも浦上庄である。
浦上氏は 後に岡山県で戦国大名となる
彼らは室津から牛窓の海域を中心に海沿いに展開した東瀬戸内の勢力といえる。
浦上氏の領国は五大老のひとりになる宇喜田家に引き継がれた。
大徳寺は浦上庄以外にも本龍野付近に小宅庄を持っていた。
揖保川左岸には大徳寺領小宅庄・二条院領弘山庄・法隆寺領斑鳩庄が並ぶ。
播磨には龍野以外に明石の大徳寺領林崎庄の名前が見える。
(林崎 「はやしさき」の「は」は、マルハの「ハ」 日本有数の水産会社 発祥の地)
大徳寺領の分布を見ると
播磨 京都 琵琶湖東岸 岐阜の長良川・木曽川の間
九頭竜川流域などが古い。
後醍醐天皇が雲林院の地を寄進している。
後醍醐天皇在位中の上皇のひとり
北朝の花園上皇は伴野庄(信濃国佐久郡)
と下総葛西御厨を永代大徳寺領として寄進
新田義貞は三方西荘(播磨国宍粟郡安積保)を大徳寺に寄進した。
「あずみ」という地名は海洋系の豪族の存在を強く示唆する。
近江国犬上郡西今村(現 彦根市西今町)
美濃国厚見郡長森庄
紀伊国高家荘
これは御坊市の高家王子?
洛中土御門四町町 太秦村 浄土寺村
などにも細かく大徳寺領が分布していた。
記録に残る大徳寺領以外にも
一時的に有した庄は多数あったと思われる。
久しぶりに旅館らしい旅館に泊まった。
高松から東へ琴電に乗って
その終点 志度駅近くの「いしや」
「以志や」と書く。
築百数十年の登録有形文化財。
城や寺のような本瓦をふいて
京都のように奥へ奥へと
和の庭をはさんで建物が連なる。
手水鉢の中には金魚が泳ぐ。
泊まった部屋からは
ボラボラ島のような山(五剣山)が見えた。
高松から東へ琴電に乗って
その終点 志度駅近くの「いしや」
「以志や」と書く。
築百数十年の登録有形文化財。
城や寺のような本瓦をふいて
京都のように奥へ奥へと
和の庭をはさんで建物が連なる。
手水鉢の中には金魚が泳ぐ。
泊まった部屋からは
ボラボラ島のような山(五剣山)が見えた。
タイ王国の首都バンコクは
クルンテープ マハナコーン
天使の都 偉大な都市
にはじまる
非常に長い名前を持ってます。
次に続くのは
アモーン ラタナコーシン
ラタナコーシンは
タイの現王朝の名前でもありますが
「帝釈天(インドラ神)の帝網の
結び目に輝く宝珠」の意味。
アモーンは「不壊」
あわせて「帝釈天の壊れることなき宝珠」となる。
四天王を統率する帝釈天の都をもって
任じているのですな。
名前は このあとも まだまだ続きますが
王国の都は そこに住む人々を結ぶ
宝珠のネットワークであり
それぞれの心を結んで
お互いに通信しながら輝く
数限りない宝石の集合体である
そして遠くから見れば
それもまた ひとつの宝石に見える
と主張しているようです。
空海は その著「即身成仏義」で重重帝網名即身
重々帝網(たいもう)なるを即身となづく
「あらゆる体が珠さながら照り合うのを即身という」
という夢を語りましたが
タイの帝王たちも同じ夢を見ていたのかもしれませぬ。
北風家は「兵庫の北風か 北風の兵庫か」といわれた大船主。
北前船の創始者といわれる。
灘の酒を江戸に回漕した樽廻船の運営者でもあった。
本家は明治時代に倒産。最後の当主は正造。
高田屋嘉兵衛 工楽松右衛門のパトロンでもあった
荘右衛門貞幹(さだもと 1736~1802)の頃 最も栄える。
古典落語に登場する兵庫津には巨大な家として
もうひとつ幸辰(こうたつ)があったそうで
北風に当たって寒かったら
火燵(こうたつ)へ入って温まれ
という言葉が噺のサゲ(オチ)になっている。
北風家のきびしい家風を言っているのかもしれない。
南北朝時代 家の危機を救った
北風家の北条政子とも言うべき藤の尼(尼御前)は
・・・
恥を忍び 貧困の中で時を過ごす境遇にあったとしても
境遇に耐え 人を増やし 財産も増やして時を待ち
再び公に奉仕せよ
・・・
人が増えても わが人と思うな
財産が増えても わが財産と思うな
それは全て公に奉仕する為に
そなたたちに一時預けられているものである
という家訓を残した
代表的な北前船 辰悦丸の船印は山の下に「高」であるが
笠の形をした上部の「山(笠)」印は北風家の紋章であるらしい。
北前船の創始者といわれる。
灘の酒を江戸に回漕した樽廻船の運営者でもあった。
本家は明治時代に倒産。最後の当主は正造。
高田屋嘉兵衛 工楽松右衛門のパトロンでもあった
荘右衛門貞幹(さだもと 1736~1802)の頃 最も栄える。
古典落語に登場する兵庫津には巨大な家として
もうひとつ幸辰(こうたつ)があったそうで
北風に当たって寒かったら
火燵(こうたつ)へ入って温まれ
という言葉が噺のサゲ(オチ)になっている。
北風家のきびしい家風を言っているのかもしれない。
南北朝時代 家の危機を救った
北風家の北条政子とも言うべき藤の尼(尼御前)は
・・・
恥を忍び 貧困の中で時を過ごす境遇にあったとしても
境遇に耐え 人を増やし 財産も増やして時を待ち
再び公に奉仕せよ
・・・
人が増えても わが人と思うな
財産が増えても わが財産と思うな
それは全て公に奉仕する為に
そなたたちに一時預けられているものである
という家訓を残した
代表的な北前船 辰悦丸の船印は山の下に「高」であるが
笠の形をした上部の「山(笠)」印は北風家の紋章であるらしい。
兵庫県最大の古墳
五色塚をバックに
馬に乗る古墳時代の王者。
神戸市教育委員会のパンフレットにあった。
神戸市垂水区(旧播磨国明石郡)を中心とする
この古墳を築いた勢力の最盛期
その勢力は東は尼崎 西は高砂に
及んだといわれる。
いわゆる東灘 西灘と呼ばれる
地域を網羅していた。
両地域は摂津国の設置によって
東灘は摂津 西灘は播磨となり
違う国 都(畿内)と鄙(ひな)に分断され
兵庫県の設置によって
再び一つとなる
馬は 古墳時代に輸入された
最新の高級輸入ファッションで
今でいえば輸入物の高級スポーツカー
フェラーリのようなものだったと思われる。
五色塚をバックに
馬に乗る古墳時代の王者。
神戸市教育委員会のパンフレットにあった。
神戸市垂水区(旧播磨国明石郡)を中心とする
この古墳を築いた勢力の最盛期
その勢力は東は尼崎 西は高砂に
及んだといわれる。
いわゆる東灘 西灘と呼ばれる
地域を網羅していた。
両地域は摂津国の設置によって
東灘は摂津 西灘は播磨となり
違う国 都(畿内)と鄙(ひな)に分断され
兵庫県の設置によって
再び一つとなる
馬は 古墳時代に輸入された
最新の高級輸入ファッションで
今でいえば輸入物の高級スポーツカー
フェラーリのようなものだったと思われる。
我々がよく使う「自由」や「見解」という単語は
臨濟録に由来する。
この語録の日本への影響ははかりしれない。
臨濟義玄禪師は唐王朝末期(日本では平安初期)の人。
臨済宗は日本に渡来して茶道や武士道のバックボーンとなる。
禅宗は一般に道教の影響を強く受けた仏教と言われる。
この仏教宗派は とりわけ武士階級の間に広く浸透した。
その後 公家の間にも東福寺のような巨大な禅寺を建立するものが現れ
京都御所の中にも禅は浸透し始める。
茶道を生み出す原動力になった大徳寺は天皇家との結びつきが強く
三好氏 豊臣氏など天下人として台頭した戦国大名や
巨富を蓄えた商人と京都御所を幕府の頭越しに結びつけた。
天皇家が足利家の没落と運命をともにせず
新しい時代に生き残ったのは台頭する新勢力と
禅の美学を共有しつつ結びついたことが大きい。
真正見解
今時學佛法者,且要求真正見解。
若得真正見解,生死不染、去住自由。
不要求殊勝,殊勝自至。
道流,只如自古先德,皆有出人底路,如山僧指示人處
只要爾不受人惑,要用便用,更莫遲疑。
如今學者不得,病在甚處。病在不自信處。
爾若自信不及,即便忙忙地徇一切境轉
被他萬境回換,不得自由。
爾若能歇得念念馳求心,便與祖佛不別。
爾欲得識 祖佛麼。
只爾面前聽法底是。
學人信不及,便向外馳求。
臨濟録に由来する。
この語録の日本への影響ははかりしれない。
臨濟義玄禪師は唐王朝末期(日本では平安初期)の人。
臨済宗は日本に渡来して茶道や武士道のバックボーンとなる。
禅宗は一般に道教の影響を強く受けた仏教と言われる。
この仏教宗派は とりわけ武士階級の間に広く浸透した。
その後 公家の間にも東福寺のような巨大な禅寺を建立するものが現れ
京都御所の中にも禅は浸透し始める。
茶道を生み出す原動力になった大徳寺は天皇家との結びつきが強く
三好氏 豊臣氏など天下人として台頭した戦国大名や
巨富を蓄えた商人と京都御所を幕府の頭越しに結びつけた。
天皇家が足利家の没落と運命をともにせず
新しい時代に生き残ったのは台頭する新勢力と
禅の美学を共有しつつ結びついたことが大きい。
真正見解
今時學佛法者,且要求真正見解。
若得真正見解,生死不染、去住自由。
不要求殊勝,殊勝自至。
道流,只如自古先德,皆有出人底路,如山僧指示人處
只要爾不受人惑,要用便用,更莫遲疑。
如今學者不得,病在甚處。病在不自信處。
爾若自信不及,即便忙忙地徇一切境轉
被他萬境回換,不得自由。
爾若能歇得念念馳求心,便與祖佛不別。
爾欲得識 祖佛麼。
只爾面前聽法底是。
學人信不及,便向外馳求。
西宮 海清寺 (1394)
2010年6月5日 歴史物
西宮の禅寺 海清寺は
禅宗 妙心寺派の歴史のなかで重要な位置をしめる。
妙心寺の疎開先であり 妙心寺の復興を担う人々を育てる
拠点だったのです。
鎌倉時代から室町時代にかけて北条氏や足利氏と結びついて
繁栄した五山の禅林に対して京都御所との結びつきが
つよかった大徳寺と妙心寺は林下と呼ばれ苦難の時代を
すごしたのですが このさんざんな時代に
大徳寺と妙心寺は次の時代に飛躍するエネルギーを用意したともいえます。
海清寺は京都の千本松原に退蔵院を開いた
妙心寺第三世無因宗因禅師の開山(1394)。
禅師の頂相(ちんそう)を所蔵する。
現在 幹周り6mを超す大楠は このときに植えられたものといわれる。
ちょうど このころ足利義満の妙心寺への弾圧が始まる。
義満は五山の僧侶を優遇し 大徳寺と妙心寺を忌避した。
義満が妙心寺の取り潰しに動く以前に
無因宗因は妙心寺を離れ西宮に拠点を移していた。
以後 禅師はここを拠点とする。
義満の寺領没収によって荒廃した妙心寺を復興するのは
海清寺にあった無因宗因のもとに参禅した日峰宗舜であり
そのあと応仁の乱で焼失した妙心寺を再興する雪江宗深も
海清寺の住持をつとめている。
歴史を見ると五山は室町幕府の衰退とともに衰える一方
在野の大徳寺と妙心寺は飛躍的に勢力をのばしていく。
江戸時代に白隠が出てからは妙心寺派は他派を圧倒する。
「働かざるもの食うべからず」のもとになった
「一日不作 一日不食」という言葉を残した百丈懐海から
無因宗因の師弟関係の主要な禅匠をたどると
百丈懐海 黄檗希運 臨済義玄
揚岐方会 白雲守端 五祖法演 円悟克勤
円悟克勤は碧岩録の著者である。
彼の門下から大慧宗杲と虎丘紹隆の二神足が出るが
大慧派は貴族化して衰退する。
虎丘紹隆 応庵曇華 蜜庵咸傑 松源崇岳 運庵普巌 虚堂智愚
松源崇岳の兄弟弟子に破庵祖先がいて
この流れから無準師範(仏鑑禅師1178〜1249)が出る。
その弟子に画僧牧谿がいる。
無準は東福寺の開祖 円爾弁円の先生であり
東福寺に華麗な肖像画が伝わる
日本に渡来した禅匠たちでは
鎌倉に建長寺を開いた蘭渓道隆も無準に師事したことがあり
兀菴普寧(ごったんふねい) 無学祖元も
円爾とともに無準の門下である。
円爾の甥 南浦紹明(大応国師)は入宋して虚堂智愚に師事し
松源派の禅を日本に伝えた。
大応の弟子に大徳寺開山の大燈国師(宗峰妙超)があり
大燈の弟子に妙心寺開山の関山慧玄がいる。
この三人の流れは頭文字をとって応燈関と呼ばれる。
慧玄は その死にあたり 旅立ちの姿 雲水の装束をつけて
庭で立ったまま死んだと伝えられる。
このあと妙心寺二世 授翁宗弼 三世 無因宗因 となる。
授翁宗弼の俗名は妙心寺の寺伝では
南朝の忠臣 万里小路藤房ともいわれる。
無因宗因は五山の一角である建仁寺の出身。
文学的な五山をでて峻烈な応燈関に参じた。
禅宗 妙心寺派の歴史のなかで重要な位置をしめる。
妙心寺の疎開先であり 妙心寺の復興を担う人々を育てる
拠点だったのです。
鎌倉時代から室町時代にかけて北条氏や足利氏と結びついて
繁栄した五山の禅林に対して京都御所との結びつきが
つよかった大徳寺と妙心寺は林下と呼ばれ苦難の時代を
すごしたのですが このさんざんな時代に
大徳寺と妙心寺は次の時代に飛躍するエネルギーを用意したともいえます。
海清寺は京都の千本松原に退蔵院を開いた
妙心寺第三世無因宗因禅師の開山(1394)。
禅師の頂相(ちんそう)を所蔵する。
現在 幹周り6mを超す大楠は このときに植えられたものといわれる。
ちょうど このころ足利義満の妙心寺への弾圧が始まる。
義満は五山の僧侶を優遇し 大徳寺と妙心寺を忌避した。
義満が妙心寺の取り潰しに動く以前に
無因宗因は妙心寺を離れ西宮に拠点を移していた。
以後 禅師はここを拠点とする。
義満の寺領没収によって荒廃した妙心寺を復興するのは
海清寺にあった無因宗因のもとに参禅した日峰宗舜であり
そのあと応仁の乱で焼失した妙心寺を再興する雪江宗深も
海清寺の住持をつとめている。
歴史を見ると五山は室町幕府の衰退とともに衰える一方
在野の大徳寺と妙心寺は飛躍的に勢力をのばしていく。
江戸時代に白隠が出てからは妙心寺派は他派を圧倒する。
「働かざるもの食うべからず」のもとになった
「一日不作 一日不食」という言葉を残した百丈懐海から
無因宗因の師弟関係の主要な禅匠をたどると
百丈懐海 黄檗希運 臨済義玄
揚岐方会 白雲守端 五祖法演 円悟克勤
円悟克勤は碧岩録の著者である。
彼の門下から大慧宗杲と虎丘紹隆の二神足が出るが
大慧派は貴族化して衰退する。
虎丘紹隆 応庵曇華 蜜庵咸傑 松源崇岳 運庵普巌 虚堂智愚
松源崇岳の兄弟弟子に破庵祖先がいて
この流れから無準師範(仏鑑禅師1178〜1249)が出る。
その弟子に画僧牧谿がいる。
無準は東福寺の開祖 円爾弁円の先生であり
東福寺に華麗な肖像画が伝わる
日本に渡来した禅匠たちでは
鎌倉に建長寺を開いた蘭渓道隆も無準に師事したことがあり
兀菴普寧(ごったんふねい) 無学祖元も
円爾とともに無準の門下である。
円爾の甥 南浦紹明(大応国師)は入宋して虚堂智愚に師事し
松源派の禅を日本に伝えた。
大応の弟子に大徳寺開山の大燈国師(宗峰妙超)があり
大燈の弟子に妙心寺開山の関山慧玄がいる。
この三人の流れは頭文字をとって応燈関と呼ばれる。
慧玄は その死にあたり 旅立ちの姿 雲水の装束をつけて
庭で立ったまま死んだと伝えられる。
このあと妙心寺二世 授翁宗弼 三世 無因宗因 となる。
授翁宗弼の俗名は妙心寺の寺伝では
南朝の忠臣 万里小路藤房ともいわれる。
無因宗因は五山の一角である建仁寺の出身。
文学的な五山をでて峻烈な応燈関に参じた。
現在の明石城は17世紀はじめ 1620年頃に築かれた。
今ではビルに眺めをさえぎられてしまっているが
かつては明石の海を見下ろすことができた
海抜数十メートルの丘のまわりに天下普請の石垣をめぐらす。
城内の周遊には一時間くらいかかりそうである。
JRと山陽電車の明石駅は内堀のすぐ南側に位置し
その南側に山陽道と城下町があり
西の明石川と南の明石海峡が外堀の役目をはたしていた。
城内には一部 原生林に近いような森もある。
兵庫県の城では姫路城とともに「日本の桜百選」に選ばれている。
http://filologos.diarynote.jp/200904200820233189/
城の中心部には 後天八卦図に基づいた
乾艮巽坤(いぬい うしとら たつみ ひつじさる)の
四つの櫓を配していた。 現在 巽坤の二つが残る。
これらは伏見城の櫓を譲り受けたものと言われる。
貴重なものである。
五層の天守を築くことのできる天守台があるが
天守が築かれたことはない。
そのかわり
長谷川等仁の襖絵(雪景群禽図)を持つ
聚楽第のような三階建ての御殿があった。
明石藩は石高は多くないが幕閣を構成する大藩で
譜代と御家門の有力者にわりあてられ
現在の神戸市垂水区 西区 明石市東部 と三木市の一部を領域とした。
なお明石市西部(二見)は埼玉県の忍藩(おし)領。
江戸時代 明石の台地上は煙草を産した。
海には現在でも瀬戸内最大の漁場である鹿の瀬(しかのせ)がひかえる。
漁場自体を担保に入れて 大阪商人からお金を借りることができたと言われ
鮮魚を大阪市場に供給して巨利を得るものもあった。
現在のマルハは ここから出てきた。
創業者の銅像が明石城公園の入り口に立っている。
小笠原家に続く藤井松平家の治世は二代(1649 - 1679)
松平忠国は日本最古の灯台のひとつをつくり
源氏物語を愛好し「蔦の細道」を整備した。
その子 信之は老中にまで出世している。
1682年から1701年にかけて藩主をつとめた
松平直明はタバコを藩の専売事業とし藩の財政を安定させた。
この専売事業がJTの基礎になっている。
写真は坤櫓 巽櫓と坤櫓 明石城跡の航空写真
http://filologos.diarynote.jp/200901291751347712/ 明石公園の巨木
http://filologos.diarynote.jp/200409051129520000 旧郡
今ではビルに眺めをさえぎられてしまっているが
かつては明石の海を見下ろすことができた
海抜数十メートルの丘のまわりに天下普請の石垣をめぐらす。
城内の周遊には一時間くらいかかりそうである。
JRと山陽電車の明石駅は内堀のすぐ南側に位置し
その南側に山陽道と城下町があり
西の明石川と南の明石海峡が外堀の役目をはたしていた。
城内には一部 原生林に近いような森もある。
兵庫県の城では姫路城とともに「日本の桜百選」に選ばれている。
http://filologos.diarynote.jp/200904200820233189/
城の中心部には 後天八卦図に基づいた
乾艮巽坤(いぬい うしとら たつみ ひつじさる)の
四つの櫓を配していた。 現在 巽坤の二つが残る。
これらは伏見城の櫓を譲り受けたものと言われる。
貴重なものである。
五層の天守を築くことのできる天守台があるが
天守が築かれたことはない。
そのかわり
長谷川等仁の襖絵(雪景群禽図)を持つ
聚楽第のような三階建ての御殿があった。
明石藩は石高は多くないが幕閣を構成する大藩で
譜代と御家門の有力者にわりあてられ
現在の神戸市垂水区 西区 明石市東部 と三木市の一部を領域とした。
なお明石市西部(二見)は埼玉県の忍藩(おし)領。
江戸時代 明石の台地上は煙草を産した。
海には現在でも瀬戸内最大の漁場である鹿の瀬(しかのせ)がひかえる。
漁場自体を担保に入れて 大阪商人からお金を借りることができたと言われ
鮮魚を大阪市場に供給して巨利を得るものもあった。
現在のマルハは ここから出てきた。
創業者の銅像が明石城公園の入り口に立っている。
小笠原家に続く藤井松平家の治世は二代(1649 - 1679)
松平忠国は日本最古の灯台のひとつをつくり
源氏物語を愛好し「蔦の細道」を整備した。
その子 信之は老中にまで出世している。
1682年から1701年にかけて藩主をつとめた
松平直明はタバコを藩の専売事業とし藩の財政を安定させた。
この専売事業がJTの基礎になっている。
写真は坤櫓 巽櫓と坤櫓 明石城跡の航空写真
http://filologos.diarynote.jp/200901291751347712/ 明石公園の巨木
http://filologos.diarynote.jp/200409051129520000 旧郡
本来の太陽暦は
冬至の日が新年のはじまりであった。
太陽の復活が始まる日である。
その意味ではクリスマスのほうが
本来の元日に近い。
現在の元日は
ローマ共和国時代( 紀元前153年)に
年の始まりが3月から1月に変更されたことに
由来するらしい。
それまではローマでも
春のはじまりが1年のはじまりだったみたい。
日本は中国 唐王朝の暦法(宣明暦)を
唐が滅亡したあとも
江戸時代(1685年)まで使い続けた。
宣明暦は二十四節気に800年間で
二日のずれを生じたそうである。
ユリウス暦とグレゴリオ暦が
十六世紀で十日のずれがあるのと比べて
優秀な暦法であったのかもしれない。
この旧暦では二十四節気の
立春のあと、雨水を含む月を
春のはじまりということで
新春正月としていた。
冬至の日が新年のはじまりであった。
太陽の復活が始まる日である。
その意味ではクリスマスのほうが
本来の元日に近い。
現在の元日は
ローマ共和国時代( 紀元前153年)に
年の始まりが3月から1月に変更されたことに
由来するらしい。
それまではローマでも
春のはじまりが1年のはじまりだったみたい。
日本は中国 唐王朝の暦法(宣明暦)を
唐が滅亡したあとも
江戸時代(1685年)まで使い続けた。
宣明暦は二十四節気に800年間で
二日のずれを生じたそうである。
ユリウス暦とグレゴリオ暦が
十六世紀で十日のずれがあるのと比べて
優秀な暦法であったのかもしれない。
この旧暦では二十四節気の
立春のあと、雨水を含む月を
春のはじまりということで
新春正月としていた。
相楽園は三田藩の重臣や神戸市長をつとめた
小寺家の屋敷跡である。
小寺という苗字は播州に多い。
姫路城の原型は1340年代に築かれるが
それ以来秀吉に譲られるまで代々の城主は
山名氏の占領時代をのぞいて小寺氏がつとめた。
福岡52万石の祖、黒田如水(官兵衛/孝高)は
西播の戦国大名であった
小寺氏の一族として活動を開始し
のち父方の旧姓に復して黒田となる。
家紋は藤巴紋。
如水の母は明石氏の出身である。
黒田武士は播州の有力国人であった
小寺氏と明石氏を背景として成立したのである。
写真は相楽園
背景に見えるのは兵庫県庁
下の写真は黒田長政の兜
小寺家の屋敷跡である。
小寺という苗字は播州に多い。
姫路城の原型は1340年代に築かれるが
それ以来秀吉に譲られるまで代々の城主は
山名氏の占領時代をのぞいて小寺氏がつとめた。
福岡52万石の祖、黒田如水(官兵衛/孝高)は
西播の戦国大名であった
小寺氏の一族として活動を開始し
のち父方の旧姓に復して黒田となる。
家紋は藤巴紋。
如水の母は明石氏の出身である。
黒田武士は播州の有力国人であった
小寺氏と明石氏を背景として成立したのである。
写真は相楽園
背景に見えるのは兵庫県庁
下の写真は黒田長政の兜
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