平城宮跡でチェロコンサートがあった。
会場はオープンエア
1723年 ナポリで作られた
「アンジェラ」の響きを楽しんできた。
往路は西大寺駅から暗い道を
ウォークナビをたよりに延々歩いた。
会場の庭園は昼間とは違う幽玄な景色
能舞台の原型のような...
ここでは観月会などもあったみたい
http://nara.keizai.biz/headline/photo/265/
会場はオープンエア
1723年 ナポリで作られた
「アンジェラ」の響きを楽しんできた。
往路は西大寺駅から暗い道を
ウォークナビをたよりに延々歩いた。
会場の庭園は昼間とは違う幽玄な景色
能舞台の原型のような...
ここでは観月会などもあったみたい
http://nara.keizai.biz/headline/photo/265/
姫路のオディロン・ルドン展(Odilon Redon)
2009年8月13日 アート岐阜県のルドン・コレクションを展示中。
ルドンは印象派と対立した象徴派(シンボリズム)の大家
フランスの国宝級の画家だそうで
ニューヨークやパリの大美術館が彼の作品を競って集めている。
日本の地方美術館が数百点ものルドン作品を所蔵しているとはどういうこと??
彼は精神の暗黒、暗いトンネルを通過し、晩年は素晴らしい境地に至ったと評されます。
展示にはブッダを描いた絵などもありましたが
あれは「降魔成道(ごうまじょうどう、誘惑を振り切って悟りをひらく)」という観点から描いているのか、仏教の神秘思想である密教に興味があったのかそのあたりはわかりませんでした。
今回の姫路の展示は暗い時代の作品(ルドンの黒 Noir)が中心でしたが
晩年の作品もまたいろいろと見てみたいものです。
象徴主義は人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現しようとするもので
黙示録やカバラとつながっていそうです。
展示には薔薇十字のリットンとの関係についての説明がありましたが
その部分はよくわかりませんでした。
Minstrelさんのブログ記事
http://minstrel1209.blog62.fc2.com/blog-date-20090813.html
ルドンは印象派と対立した象徴派(シンボリズム)の大家
フランスの国宝級の画家だそうで
ニューヨークやパリの大美術館が彼の作品を競って集めている。
日本の地方美術館が数百点ものルドン作品を所蔵しているとはどういうこと??
彼は精神の暗黒、暗いトンネルを通過し、晩年は素晴らしい境地に至ったと評されます。
展示にはブッダを描いた絵などもありましたが
あれは「降魔成道(ごうまじょうどう、誘惑を振り切って悟りをひらく)」という観点から描いているのか、仏教の神秘思想である密教に興味があったのかそのあたりはわかりませんでした。
今回の姫路の展示は暗い時代の作品(ルドンの黒 Noir)が中心でしたが
晩年の作品もまたいろいろと見てみたいものです。
象徴主義は人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現しようとするもので
黙示録やカバラとつながっていそうです。
展示には薔薇十字のリットンとの関係についての説明がありましたが
その部分はよくわかりませんでした。
Minstrelさんのブログ記事
http://minstrel1209.blog62.fc2.com/blog-date-20090813.html
大阪市立美術館 三井寺展
2008年12月6日 アート コメント (2)大阪市立美術館に行ってきた。
ここは大正14年(1925)に阪神間(住吉)に移転するまで
住友本家があったところで庭が慶沢園として残っている。
昭和元年に敷地約13000坪が大阪市へ寄贈された。
庭にいると広大な緑のまわりにビルが林立して
まるでセントラルパークである。
今日ここに来たのは、三井寺展を見るため。
三井寺は密教だけあって秘仏が多く
このような機会がないと拝観することができない。
国宝の秘仏はいづれも非常に存在感がある。 見ていて飽きない。
しかし、とにかく人が多かった。
人が多すぎて人だかりで見難い上に
午後5時で展示終了というので時間もあまりなく
ゆっくりできなくて残念だった。
今年は密教寺院として三井寺を確立した
智証大師 円珍が唐への留学を終えて
帰国してから1150年だそうである。
40代で留学したとのことだが
平均寿命の短かった当時のこと
現代の感覚でいうと70代で留学という感じかもしれない。
大峰山で修行したこともある円珍以来
三井寺は熊野修験を統括する寺でもあった。
三井寺から大峰山をへて熊野にいたる山伏の道がある。
貴族や上皇たちは、それとは別に三井寺の案内で熊野街道をたどった。
山伏ではないが、北海道を含む全国の山々をめぐり歩いて
おどろくべき数の木彫りの仏たちを残した円空も三井寺に所属していた。
三井寺は山に縁が深いようである。
三井寺は、その守護神もまた異形の神である。
渡来人の氏寺として始まった寺は
密教の神々とは別に
今でも異国の神を守護神として
特別に祭っている。
三井寺展の展示は二階から始まる。
最初のほうに智証大師伝が展示されていて
円珍の母が弘法大師 空海の姪であると書かれていたが
妹であるとする記録もあるようだ。
いずれにせよ、空海と円珍は極めて近い。
同族といってもよい。
歴史上、比叡山と三井寺は対立を繰り返したが
それはまるで最澄を継いだ比叡山と
空海の同族、円珍が確立した三井寺が
最澄と空海の対立を引き継いだ観がある。
三井寺(園城寺)はアジールでもあった。
以仁王をかくまい蓮如を保護した。
四天王寺や法隆寺において
蘇我氏系の人々がしたように
寺は壬申の乱の勝者側が敗者側の荘園城邑を没収して
敗者側の怨霊封じのためにつくられたのかもしれない。
この寺には落人に共鳴する精神がある。
三井寺を維持してきたのは
比叡山からの落人と言ってもよい。
今の三井寺には足利尊氏寄進の少数の建物を除き古い建物はない。
安土桃山時代に秀吉によって取り潰しとなり
ねね(高台院)によって再建された結果である。
このとき多くの寺宝は京都の貴族たちの屋敷に避難したようである。
展示のなかに如意寺の千手観音があった。
円珍が三井寺の塔頭のひとつとして開いた
如意山普門寺は今は阿弥陀仏を本尊とするが
かつては観音様の寺だったのかもしれない。
法華経普門品とはまさに観音経を意味している。
ここは大正14年(1925)に阪神間(住吉)に移転するまで
住友本家があったところで庭が慶沢園として残っている。
昭和元年に敷地約13000坪が大阪市へ寄贈された。
庭にいると広大な緑のまわりにビルが林立して
まるでセントラルパークである。
今日ここに来たのは、三井寺展を見るため。
三井寺は密教だけあって秘仏が多く
このような機会がないと拝観することができない。
国宝の秘仏はいづれも非常に存在感がある。 見ていて飽きない。
しかし、とにかく人が多かった。
人が多すぎて人だかりで見難い上に
午後5時で展示終了というので時間もあまりなく
ゆっくりできなくて残念だった。
今年は密教寺院として三井寺を確立した
智証大師 円珍が唐への留学を終えて
帰国してから1150年だそうである。
40代で留学したとのことだが
平均寿命の短かった当時のこと
現代の感覚でいうと70代で留学という感じかもしれない。
大峰山で修行したこともある円珍以来
三井寺は熊野修験を統括する寺でもあった。
三井寺から大峰山をへて熊野にいたる山伏の道がある。
貴族や上皇たちは、それとは別に三井寺の案内で熊野街道をたどった。
山伏ではないが、北海道を含む全国の山々をめぐり歩いて
おどろくべき数の木彫りの仏たちを残した円空も三井寺に所属していた。
三井寺は山に縁が深いようである。
三井寺は、その守護神もまた異形の神である。
渡来人の氏寺として始まった寺は
密教の神々とは別に
今でも異国の神を守護神として
特別に祭っている。
三井寺展の展示は二階から始まる。
最初のほうに智証大師伝が展示されていて
円珍の母が弘法大師 空海の姪であると書かれていたが
妹であるとする記録もあるようだ。
いずれにせよ、空海と円珍は極めて近い。
同族といってもよい。
歴史上、比叡山と三井寺は対立を繰り返したが
それはまるで最澄を継いだ比叡山と
空海の同族、円珍が確立した三井寺が
最澄と空海の対立を引き継いだ観がある。
三井寺(園城寺)はアジールでもあった。
以仁王をかくまい蓮如を保護した。
四天王寺や法隆寺において
蘇我氏系の人々がしたように
寺は壬申の乱の勝者側が敗者側の荘園城邑を没収して
敗者側の怨霊封じのためにつくられたのかもしれない。
この寺には落人に共鳴する精神がある。
三井寺を維持してきたのは
比叡山からの落人と言ってもよい。
今の三井寺には足利尊氏寄進の少数の建物を除き古い建物はない。
安土桃山時代に秀吉によって取り潰しとなり
ねね(高台院)によって再建された結果である。
このとき多くの寺宝は京都の貴族たちの屋敷に避難したようである。
展示のなかに如意寺の千手観音があった。
円珍が三井寺の塔頭のひとつとして開いた
如意山普門寺は今は阿弥陀仏を本尊とするが
かつては観音様の寺だったのかもしれない。
法華経普門品とはまさに観音経を意味している。