瀬戸内水軍

2008年3月10日 歴史物
瀬戸内水軍
瀬戸内水軍
瀬戸内水軍
紋章は村上水軍旗「丸に上」と大三島の海神の神紋「折敷紋」
下は韓国のテレビドラマに出てきた来島水軍。
伊予水軍は日本総鎮守、大三島の伊予一之宮を精神的な紐帯としていた。

古代では越智水軍、中世では河野水軍、戦国期には村上水軍に
代表される瀬戸内水軍は日本最強の水軍のひとつと言われる。

村上水軍が三島水軍(因島、能島、来島)に分かれていたように
この水軍は強力なリーダーなしには、ひとつの勢力として行動できないところがある。

さらに、支配されることを嫌いう。
毛利氏が村上水軍にあてた書状の末尾にみられる
「恐々謹言」という尊重の言葉は水軍の自主独立の気風をよくあらわしている。

そういうことで水軍衆は陸の政治からも距離をおくが
時々、歴史の重要な節目に登場してくる。

神武東征による大和朝廷は伝説上のこととして
大三島水軍や河野水軍を味方につけて平家を滅ぼした鎌倉幕府
瀬戸内の水軍を率いて楠木正成を破った足利尊氏
などは権力基盤としての瀬戸内海の重要性を示している。
海軍兵学校が瀬戸内に置かれていたのも故なきことではない。
これを無視したのが豊臣秀吉。
瀬戸内水軍を解体した上で
当時の世界で最強の水軍のひとつに戦いを挑んだ。
http://filologos.diarynote.jp/200911120655488028/

清盛の父、平忠盛も史上数少ない瀬戸内の覇者のひとりである。 
清盛の権勢もこの基盤の上に築かれた。

戦国期では毛利家の西国制覇を決定した厳島合戦の
帰趨を決めた村上水軍の存在が際立つ。 
石山本願寺が十年にわたり信長と戦うことができたのも
瀬戸内水軍による大阪湾の制海権なしではありえなかった。

柿本人麻呂は瀬戸内海を「あまさかるひな」と表現した。
万葉仮名では「天離夷」
陸の人々にとっては「都から遠い鄙(田舎)」なのかもしれないが
海の人々にとっては「海人盛日那」(海人盛なる太陽の国)であろう。

http://proto.harisen.jp/suigun.html



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