甲子園筋

2008年12月30日 地歴
甲子園筋
ゆるやかな曲線をえがく
甲子園筋のポプラ並木には
大正末期から昭和初期の開発を反映して
樹齢80年を超える木がかなりある。 
http://filologos.jugem.jp/?cid=1

阪神本線、甲子園の駅北には駅の
プラットホームの下を南北に走る甲子園筋を
はさんで敷地の広い邸が点在している。 
かつて枝川(武庫川)が流れていた
甲子園筋を車で走っていると
両側の手入れのよく行き届いた庭を見ることができる。 
西宮市有数の住宅地である。 

西のほうには六甲の山並み。 
六甲山はこのあたりから見るのが一番高く見える。 
そして、ほとんどの場合、このあたりの空気のせいなのか
青く見える。 ブルーマウンテンという呼び方がぴったりくる。 

大都市住民のための住宅地ができ始めたころの
甲子園は白砂のビーチと
高級リゾートホテルがある大阪から最も近い
自然にあふれた住宅地(別荘地?)であった。 
白砂青松の砂浜が失われ、甲子園ホテルもなくなって
リゾート地とは言えなくなった今でも
六甲山からやってくる、それなりによい空気と
イカリやピーコックといった
このような住宅地につきもののスーパーをかかえ
通勤至便の住宅地として健在。 
梅田から十分ちょっとで、この住環境に到達できる
ところはそう多くはない。 

人々は阪神間の高級住宅地というと芦屋を思い浮かべるが
巨大な邸宅は、むしろ芦屋の西、神戸市東灘区と
芦屋の東、西宮市のほうが多かった。 
菟原(うはら)住吉の住友本邸や
西宮の松下幸之助邸が有名である。 
両邸ともすでになく
甲子園筋の東西でも
このような邸宅は次々となくなっているので
「大邸宅があった」と過去形でいうほうが
いいかもしれないが、今でもおどろくほど
巨大な邸宅が残っている。 

西宮市の掲示板によると、甲子園筋界隈は
明治42(1909)年頃から高級住宅地として開発され始め
森繁久弥氏などもここに住んで、鳴尾小学校に通っていた
時期があり、友達と川で鮎を取ったり
雑木林で遊んだりしたことなどを
覚えておられるとのこと。 

かつては甲子園筋の東側は武庫郡鳴尾(なるお)村
西側は今津(いまづ)町であった。 
住宅地の開発は東側は阪神電鉄による大規模開発、
西側は今津の大地主たちによる土地区画整理事業
によって進められた。 

江戸時代後期の地図を見ると
阪神間の沿海部は大阪からみて
鳴尾村の東部までが尼崎藩領
それより西が幕府領、灘筋であった。
おおむね小曾根線が両者の境界にあたる。
天領今津は灘五郷のなかでも大きな経済力を誇り
今津港は樽廻船発着の基点であった。
戦前の宮様なども今津で船をおり
甲子園筋から二号線を北に超えたところにある
武庫川沿いの甲子園ホテルに宿泊されたとか。 

かつての高級リゾートホテル
甲子園ホテルは、メキシコ古代文明の影響を
強く受けた時期のフランク・ロイド・ライトの
建築意匠を濃厚に反映している点において
東の帝国ホテル、西の甲子園ホテルと
言われた時期がある。 






コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

日記内を検索