領主としての明石氏は秀次事件で断絶してしまいます。
この事件にまきこまれた人たちの詳細も闇に葬られたようで
戦国末期に活躍した明石氏の史料も不足気味です。
江戸時代の地元にも「ここに大名の城があったそうな」
というぐらいの記録しか残っていない。
城山□申所天文年中明石修理輔殿□申大名之御城跡之地申傳候
(宝永元年 吉田村指出帳 安永7年再製 文化4年写)
明石氏の系図について最も信頼できるものに
親族でもある福岡藩の家譜があります。
貝原益軒が1678年に三代藩主、黒田光之に献じたものです。
明石城主明石宗和の娘が姫路城主黒田(小寺)職隆に嫁いで
産まれたのが黒田孝高(よしたか、如水)とされています。
秀次事件に連座した明石氏最後の当主、則実は黒田孝高の従兄弟にあたります。
別の系図では、則実(のりざね)の叔母(父の妹)が石田三成と結婚しています。
そして、この結婚による三成の子孫は明石郡下皆発に成末氏を名乗って
土着したといいます。
西日本のもうひとつの明石氏として岡山県の明石氏があります。
浦上氏、宇喜多氏の重臣として活躍した明石氏は赤松氏の系統と思われます。 景行、景憲(源三郎)、景親、景季をへて大阪の陣で有名な掃部頭全登(かもんのかみ てるずみ)で終わります。
http://filologos.diarynote.jp/200904212045093319 明石氏
この事件にまきこまれた人たちの詳細も闇に葬られたようで
戦国末期に活躍した明石氏の史料も不足気味です。
江戸時代の地元にも「ここに大名の城があったそうな」
というぐらいの記録しか残っていない。
城山□申所天文年中明石修理輔殿□申大名之御城跡之地申傳候
(宝永元年 吉田村指出帳 安永7年再製 文化4年写)
明石氏の系図について最も信頼できるものに
親族でもある福岡藩の家譜があります。
貝原益軒が1678年に三代藩主、黒田光之に献じたものです。
明石城主明石宗和の娘が姫路城主黒田(小寺)職隆に嫁いで
産まれたのが黒田孝高(よしたか、如水)とされています。
秀次事件に連座した明石氏最後の当主、則実は黒田孝高の従兄弟にあたります。
別の系図では、則実(のりざね)の叔母(父の妹)が石田三成と結婚しています。
そして、この結婚による三成の子孫は明石郡下皆発に成末氏を名乗って
土着したといいます。
西日本のもうひとつの明石氏として岡山県の明石氏があります。
浦上氏、宇喜多氏の重臣として活躍した明石氏は赤松氏の系統と思われます。 景行、景憲(源三郎)、景親、景季をへて大阪の陣で有名な掃部頭全登(かもんのかみ てるずみ)で終わります。
http://filologos.diarynote.jp/200904212045093319 明石氏
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