関が原における蜂須賀家の行動は非常にめずらしい。
当主の家政(小六の子)は阿波を豊臣家に返上し、出家して蓬庵と名乗る。
家政の息子、至鎮は数十騎で東軍に参加。
戦後、本領を安堵され江戸幕府における阿波藩の初代となる。
親子で分裂したのは真田(昌幸、信之)だけではなかった。
家康は明石から阿波にかけて長男の子孫を配していた。
幕末の蜂須賀家は外様でありながら完全に将軍家の血筋になるが
その布石は幕府成立の最初から家康によって打ち込まれていたのである。
17世紀になると、明石海峡から鳴門海峡を渡る幕府方の閨閥が形成されていた。
明石藩初代の父、小笠原秀政が家康の嫡男、信康の娘と結婚
この結婚の長女(敬台院)が徳川時代の阿波藩初代至鎮(よししげ)と結婚。
秀政の長男(忠脩)が大阪夏の陣で戦死したため、次男が小笠原家の当主となり
明石城を築いて明石藩の初代となる。
つまり明石藩初代の姉が阿波藩初代の姉ということになる。
さらに至鎮の子、忠英(ただてる)の室は小笠原忠脩の娘。
至鎮の子光隆の室は小笠原長次の娘。
ということで江戸時代の小笠原と蜂須賀の両氏は
家康の長男の血筋を軸として二重三重の血縁関係を結ぶ。
当主の家政(小六の子)は阿波を豊臣家に返上し、出家して蓬庵と名乗る。
家政の息子、至鎮は数十騎で東軍に参加。
戦後、本領を安堵され江戸幕府における阿波藩の初代となる。
親子で分裂したのは真田(昌幸、信之)だけではなかった。
家康は明石から阿波にかけて長男の子孫を配していた。
幕末の蜂須賀家は外様でありながら完全に将軍家の血筋になるが
その布石は幕府成立の最初から家康によって打ち込まれていたのである。
17世紀になると、明石海峡から鳴門海峡を渡る幕府方の閨閥が形成されていた。
明石藩初代の父、小笠原秀政が家康の嫡男、信康の娘と結婚
この結婚の長女(敬台院)が徳川時代の阿波藩初代至鎮(よししげ)と結婚。
秀政の長男(忠脩)が大阪夏の陣で戦死したため、次男が小笠原家の当主となり
明石城を築いて明石藩の初代となる。
つまり明石藩初代の姉が阿波藩初代の姉ということになる。
さらに至鎮の子、忠英(ただてる)の室は小笠原忠脩の娘。
至鎮の子光隆の室は小笠原長次の娘。
ということで江戸時代の小笠原と蜂須賀の両氏は
家康の長男の血筋を軸として二重三重の血縁関係を結ぶ。
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