明石国造

2009年8月27日 地歴
明石国造
明石国造
写真は明石国造家の奥津城といわれる
五色塚古墳(神戸市垂水区)
全長約200m 兵庫県最大の古墳。

明石国造は兵庫県を代表する古墳時代の王者のひとりで
最盛期の勢力圏は高砂市から尼崎市に至ると推定されている。
但し、その勢力は灘筋と呼ばれる海沿いの地域に限られ
少し内陸部に入ると別の勢力があったようである。
神戸圏は山側、海側(灘筋)という分かれ方をする。
江戸時代の灘五郷でも海側の酒造地帯が天領で
山側には尼崎藩領が多く分布していた。

西摂大観によると
明石国造は武位起命に始まる。
彼は鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアエズ)の弟にあたる。
かつての神戸市葺合区の名前は
フキアエズを祭る神社(にのみや 二宮)にちなむ。

なお、武位起命は普通には「たけくらいおき」と読まれるが
「むいき」と読むと明石海峡北方の地名、三木に近くなる。
「み」というと神または水、海であり
「き」は新羅を「しらぎ」と読むように国を意味するなら
「みき」は神国または海国、水国になる。

武位起命の子が有名な椎根津彦(シイネツヒコ)で
航海者、海導者として尊崇された。
珍彦(うずひこ)、大倭直(やまとのあたえ)とも称され
大倭(やまと)国造の祖でもある。
神戸市東灘区、阪急神戸線
岡本駅北方の山に祭られている。
灯台としての役割を持っていた
「灘のひとつ火」があった神社である。
江戸時代でもなお航海者たちは
この火をたよりに大阪湾を航行したという。

この保久良(ほくら)神社から
まっすぐ南に下った阪神本線、青木(おうぎ)の浜は
彼の上陸地であったという伝説が残る。
神武東征は全体として「水軍(海賊)が大和を制した」
というストーリーなのだが、明石国造の一族が
倭国造になったというのは、ある意味でそれと重なる。

明石国造はシイネツヒコのあと
矢代スクネ(足尼)をへて、応神朝の都弥自スクネに至る。
都弥自は「はやし」と読んだのだろうか。
漢字は、その一部が音を表すという構造を持っているが
都の部首、「者」は「ハ」と読めなくもない。
五色塚を築くのはこの頃か。
そのあと大和連始祖、室屋大連公男御物スクネをへて
林スクネ(林連)や海直溝長(あまのあたえ)の名がみえる。
称徳朝に至り大和赤石連の姓を賜る。

この地域最大の神社、海神社(かいじんじゃ)は武位起命と
ウガヤフキアエズ兄弟の共通の祖先、海神(ワタツミ)を祭る。
延喜式では海神に「たるみ」というふりがながある。
「み」が神であるとすると、「たる」が海ということになる。
垂水区は海神区なのですな。

「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」
志貴皇子(しきのみこ)によるこの歌も、かつての明石郡垂水の
自然を詠んだだけの歌ではなく「海神の子孫たちの春がきた」
と言っているのかもしれませぬ。

旧明石郡内の延喜式内社 案内

明石川流域に
春日社と同體という宇留(ウル)社
「赤石(アカイハ)」ともつながっていそうな赤羽(アカハ)社
可美眞手命(ウマシマデ)を祭る物部社(現在は住吉社)がある。
(赤石はアカシとも読み、明石の旧字)

「いわばしるたるみ」とも読めそうな
伊和都比賣社と海神社。
「いわひめのやしろ たるみのやしろ」
海神社の夏祭りは瀬戸内三大船渡御のひとつといわれる
勇壮な海上パレートである。

不思議な祭り、オシャタカ舟神事を伝え
通説は「漁師の守り神」というが
名前の意味が不明の
弥賀多々社(ミカタタ 現在は戎社) 
イザナギ、イザナミをはじめとして
多くの神々を祭っているので
「神が多い」とも読んでみたい。

明石から少し西に行くと
謎の神、日岡坐天伊佐々比古(アメノイササヒコ)
を祭りヤマトタケルの母の実家という伝説を持つ
日岡社がある。 陵墓としては日岡陵 ひおかのみささぎ)

尼崎市唯一の式内社、伊佐具神社に祭られる
五十狭城入彦尊は通常、イサギイリヒコと読むが
「狭」は「サ」と読んでもいいかもしれない。


全然、関係ないですが水産業の雄、マルハの「ハ」は
この記事に出てくるハヤシノスクネの本拠地、林の「ハ」です。
江戸時代に明石の魚を大阪に運んで巨利を積んだと聞きます。

http://filologos.diarynote.jp/200904212045093319 明石氏





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