写真は多くの海戦がおこなわれた統営市(통영)
閑麗海上国立公園(한려해상 국립공원)
瀬戸内の風景に似る。
http://jpn.tongyeong.go.kr
近代に至るまで日本の水軍は海兵隊であった。
壇ノ浦の戦いや湊川の戦いがそうであったように
敵艦を撃沈するという艦隊同士の戦いというより
敵艦に乗り込むか上陸しての戦闘が主流であった。
日本では幕末でもなお敵艦を砲撃するときは
陸上の砲台からである。
大艦巨砲による艦砲射撃は(信長の鉄甲船を除いて)
明治の海軍を待たねばならない。
一列に並べた艦隊からの集中砲火によって
敵艦隊を殲滅しようとする全羅道左水使
李舜臣の戦術は16世紀において出色のものであった。
最初に、この戦術を目にした日本側の水将は、さぞかし驚いた
ことであろう。 同時に、このような巨砲を積んだ船は不安定で
信長の鉄甲船がそうであったように沿岸をソロソロと航行するのが
せいぜいであり、玄界灘を横切る日本の補給線を外洋で
攻撃することはできなかったようである。
武田騎馬隊は鉄砲の集中砲火の前に長篠の合戦で壊滅したが
朝鮮出兵での海戦では突撃する日本の水軍を
大砲を連ねて迎え撃つ朝鮮水軍というパターンがあった。
攻撃側は、ともに砲火がとぎれることを期待していたが
勝利した側には砲撃をとぎれさせない工夫があったようである。
織田信長や李舜臣が高く評価される所以である。
李舜臣は出撃のタイミングもよかった。
水軍を率いる日本側の水軍諸大名たちが陸戦に参加していった
あとの手薄な艦隊がさらに各地に分散したところをねらって
各個撃破していったものである。 敵艦隊についての情報収集に
優れていたことがうかがえる。
この戦役では、戦国最強の海将といわれた能島村上水軍の
村上武吉(むらかみ たけよし)は秀吉に忌避されて参戦せず
三好氏以来の強力な水軍を擁していた阿波蜂須賀藩や
瀬戸内の海賊衆に声望があった小早川隆景も陸軍として動員された。
秀吉の水軍軽視が顕著に見られるところである。
水軍総指揮官としての李舜臣の官位(三道水軍統制使)
は武官の最高位と極めて高いものであった。
彼とつりあうのは九鬼嘉隆ではなく小早川隆景であったろう。
水軍を率いた藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明の諸大名も全員が
関が原で戦っていることが示すように本来の水将ではない。
海戦のないときは陸上の戦闘に従事し水軍兵士を訓練することはなかった。
大水軍を編成して半島の西海岸沿いに北上しようという作戦自体が
慶長の役に至るまで存在していなかったようである。
海賊衆では瀬戸内を代表する村上水軍のうち因島水軍と能島水軍は
統制のとれた水軍としては不参加であり、来島水軍の孤軍奮闘が目立っている。
この戦役で来島水軍は唐浦海戦(1592.6.2)で来島通之(得居通年 1557 - )
鳴梁海戦で来島通総と二人の当主を失う。 対戦相手はともに李舜臣。
日本の海賊衆を束ねた日本側の主要な大名は藤堂高虎であった。
彼は海外派兵に強硬に反対していた大和大納言、豊臣秀長の家老であり
彼自身も朝鮮出兵に反感を持っていたようである。
秀長没後、大納言家を継承した豊臣秀保の名代
大和郡山藩の執政家老(紀伊粉河城主)として朝鮮半島に渡った。
彼にくすぶる出兵への反感は秀吉との間に亀裂を生み
高虎をかばった家康に藤堂家が接近するきっかけになったと思われる。
朝鮮出兵をめぐる秀吉と大和大納言家の間のギクシャクが
秀吉による大和大納言家の取り潰しや、秀保の兄弟である
関白秀次の処刑に関係したかどうかは不明である。
高虎が文禄の役で率いた水軍は紀伊水軍が主力であったらしい。
慶長の役では宇和島(後に大洲や今治)城主として伊予水軍を率いた。
さらに脇坂安治(洲本城主)が淡路島の由良水軍をはじめとする東瀬戸内の水軍
加藤嘉明が現在の愛媛県松山付近の伊予水軍を率いていた。
そのほか、蔚山攻防戦では長宗我部氏の水軍が参加している。
阿波水軍の参加もあり、全体として四国勢というか
紀伊・淡路を加えた南海道諸国の水軍が目立つ。
海賊衆からは伊勢志摩の鳥羽水軍を率いた九鬼嘉隆
淡路島の菅達長(岩屋)、来島水軍の通之・通総兄弟の参加が目立っている。
文禄の役では開戦とともに日本の水軍は慶尚道の水軍を一掃したが
李舜臣率いる全羅道の水軍が出撃してくると
玉浦(옥포)・泗川湾・唐浦と苦戦を重ねる。
唐浦では来島通之が戦死し、亀井琉求守が敗退。
閑山島 見乃梁海戦では脇坂水軍の軍船が壊滅。
脇坂記は戦闘の様子を次のように書く。
------
番船狭き瀬戸内を過ぎて
広き所へ出で、一度に梶を取なおほし
大船を箕の手に分け
味方の船を引き包み
さしつめ引きつめ射る程に
味方の船の内に手負い死人多かり。
敵は大船、味方は小船なれば
叶(かなひ)がたくみへて
本(もと)の瀬戸内へ
引退(ひきしりぞ)かむとしける時
敵の番船おし掛けおし掛け
味方の船へほうろく火矢投げ入れて
即時に船を焼ける間
安治の家臣脇坂左兵衛、渡辺七衛門を始めとし
名有る者共討死しける。
ISBN4-578-12961-6 p109-
(仮名遣い修正)
------
広い海域に出たところで
敵前大回頭をした朝鮮水軍が
左右に翼を広げて包囲殲滅戦を始めたこと
退こうとした脇坂水軍が狭い瀬戸に殺到したとき
総攻撃をかけられて大敗したことが書かれている。
この海戦は安治の抜け駆けといわれるが
攻撃してきた朝鮮水軍を深追いしすぎて
罠にはまったというほうが正確である。
安骨浦海戦では九鬼嘉隆の鳥羽水軍や
加藤 嘉明の伊予水軍(河野水軍系)も大打撃を受けた。
水軍の大敗を聞いた秀吉は
自らの渡海を思いとどまり、水軍に対して
李舜臣と戦うことを避けるよう指示したと言われる。
日本の水軍は、それ以降、文禄の役を通じて
日露戦争のときのロシア艦隊が旅順港に閉じこもったように
釜山港などに閉じこもり海戦を避けた。
慶長の役が始まったとき李舜臣は失脚していた。
慶長2(1597年)三道水軍統制使・元均(ウォンギュン 원균)
が率いた朝鮮水軍は巨済島(漆川梁 칠천량)海戦で壊滅する。
150隻(小船を含めれば数百隻?)の船は
慶尚右水使・裴楔が率いて戦線を離脱した12隻
を除いてすべて破壊され元均、全羅右水使・李億祺
忠清水使・崔湖の三人の提督が戦死した。
このあと提督に復帰した李舜臣は残された十数隻の戦艦を率いて
おしよせた数百隻の日本水軍を鳴梁(명량)海戦に破る。
この海戦で来島水軍の来島通総戦死。
秀吉の死によって、この戦役は終わる。
五大老が半島からの撤兵を指令したとき
小西行長は明と李舜臣の水軍に撤退を阻まれていた。
救援にかけつけた島津水軍と李舜臣の間に
露梁海戦(노량 해전)が勃発する。
この海戦で名提督、李舜臣戦死。
島津水軍は甚大な被害を出しながらも
小西行長の救出に成功する。
樺山氏などの薩摩の水軍を担った家の先祖たちも
この海戦に参加していたようである。
薩摩が主流となった明治の海軍は密かに李舜臣を尊崇していたと
司馬遼太郎は述べるが、李舜臣の生き方や死に方は薩摩武士の
美意識にかなうものがあったことは想像しうる。
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/09/0906.htm
阿波水軍と朝鮮の役
http://www.searchnavi.com/~hp/tojin/leess/
韓国ドラマに描かれた藤堂高虎
http://homepage2.nifty.com/H-Suga/kan9.html
淡路島の西淡町江尻、江善寺に
脇坂水軍の戦死者を弔う
高麗陣打死衆供養碑があるとのこと。
閑麗海上国立公園(한려해상 국립공원)
瀬戸内の風景に似る。
http://jpn.tongyeong.go.kr
近代に至るまで日本の水軍は海兵隊であった。
壇ノ浦の戦いや湊川の戦いがそうであったように
敵艦を撃沈するという艦隊同士の戦いというより
敵艦に乗り込むか上陸しての戦闘が主流であった。
日本では幕末でもなお敵艦を砲撃するときは
陸上の砲台からである。
大艦巨砲による艦砲射撃は(信長の鉄甲船を除いて)
明治の海軍を待たねばならない。
一列に並べた艦隊からの集中砲火によって
敵艦隊を殲滅しようとする全羅道左水使
李舜臣の戦術は16世紀において出色のものであった。
最初に、この戦術を目にした日本側の水将は、さぞかし驚いた
ことであろう。 同時に、このような巨砲を積んだ船は不安定で
信長の鉄甲船がそうであったように沿岸をソロソロと航行するのが
せいぜいであり、玄界灘を横切る日本の補給線を外洋で
攻撃することはできなかったようである。
武田騎馬隊は鉄砲の集中砲火の前に長篠の合戦で壊滅したが
朝鮮出兵での海戦では突撃する日本の水軍を
大砲を連ねて迎え撃つ朝鮮水軍というパターンがあった。
攻撃側は、ともに砲火がとぎれることを期待していたが
勝利した側には砲撃をとぎれさせない工夫があったようである。
織田信長や李舜臣が高く評価される所以である。
李舜臣は出撃のタイミングもよかった。
水軍を率いる日本側の水軍諸大名たちが陸戦に参加していった
あとの手薄な艦隊がさらに各地に分散したところをねらって
各個撃破していったものである。 敵艦隊についての情報収集に
優れていたことがうかがえる。
この戦役では、戦国最強の海将といわれた能島村上水軍の
村上武吉(むらかみ たけよし)は秀吉に忌避されて参戦せず
三好氏以来の強力な水軍を擁していた阿波蜂須賀藩や
瀬戸内の海賊衆に声望があった小早川隆景も陸軍として動員された。
秀吉の水軍軽視が顕著に見られるところである。
水軍総指揮官としての李舜臣の官位(三道水軍統制使)
は武官の最高位と極めて高いものであった。
彼とつりあうのは九鬼嘉隆ではなく小早川隆景であったろう。
水軍を率いた藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明の諸大名も全員が
関が原で戦っていることが示すように本来の水将ではない。
海戦のないときは陸上の戦闘に従事し水軍兵士を訓練することはなかった。
大水軍を編成して半島の西海岸沿いに北上しようという作戦自体が
慶長の役に至るまで存在していなかったようである。
海賊衆では瀬戸内を代表する村上水軍のうち因島水軍と能島水軍は
統制のとれた水軍としては不参加であり、来島水軍の孤軍奮闘が目立っている。
この戦役で来島水軍は唐浦海戦(1592.6.2)で来島通之(得居通年 1557 - )
鳴梁海戦で来島通総と二人の当主を失う。 対戦相手はともに李舜臣。
日本の海賊衆を束ねた日本側の主要な大名は藤堂高虎であった。
彼は海外派兵に強硬に反対していた大和大納言、豊臣秀長の家老であり
彼自身も朝鮮出兵に反感を持っていたようである。
秀長没後、大納言家を継承した豊臣秀保の名代
大和郡山藩の執政家老(紀伊粉河城主)として朝鮮半島に渡った。
彼にくすぶる出兵への反感は秀吉との間に亀裂を生み
高虎をかばった家康に藤堂家が接近するきっかけになったと思われる。
朝鮮出兵をめぐる秀吉と大和大納言家の間のギクシャクが
秀吉による大和大納言家の取り潰しや、秀保の兄弟である
関白秀次の処刑に関係したかどうかは不明である。
高虎が文禄の役で率いた水軍は紀伊水軍が主力であったらしい。
慶長の役では宇和島(後に大洲や今治)城主として伊予水軍を率いた。
さらに脇坂安治(洲本城主)が淡路島の由良水軍をはじめとする東瀬戸内の水軍
加藤嘉明が現在の愛媛県松山付近の伊予水軍を率いていた。
そのほか、蔚山攻防戦では長宗我部氏の水軍が参加している。
阿波水軍の参加もあり、全体として四国勢というか
紀伊・淡路を加えた南海道諸国の水軍が目立つ。
海賊衆からは伊勢志摩の鳥羽水軍を率いた九鬼嘉隆
淡路島の菅達長(岩屋)、来島水軍の通之・通総兄弟の参加が目立っている。
文禄の役では開戦とともに日本の水軍は慶尚道の水軍を一掃したが
李舜臣率いる全羅道の水軍が出撃してくると
玉浦(옥포)・泗川湾・唐浦と苦戦を重ねる。
唐浦では来島通之が戦死し、亀井琉求守が敗退。
閑山島 見乃梁海戦では脇坂水軍の軍船が壊滅。
脇坂記は戦闘の様子を次のように書く。
------
番船狭き瀬戸内を過ぎて
広き所へ出で、一度に梶を取なおほし
大船を箕の手に分け
味方の船を引き包み
さしつめ引きつめ射る程に
味方の船の内に手負い死人多かり。
敵は大船、味方は小船なれば
叶(かなひ)がたくみへて
本(もと)の瀬戸内へ
引退(ひきしりぞ)かむとしける時
敵の番船おし掛けおし掛け
味方の船へほうろく火矢投げ入れて
即時に船を焼ける間
安治の家臣脇坂左兵衛、渡辺七衛門を始めとし
名有る者共討死しける。
ISBN4-578-12961-6 p109-
(仮名遣い修正)
------
広い海域に出たところで
敵前大回頭をした朝鮮水軍が
左右に翼を広げて包囲殲滅戦を始めたこと
退こうとした脇坂水軍が狭い瀬戸に殺到したとき
総攻撃をかけられて大敗したことが書かれている。
この海戦は安治の抜け駆けといわれるが
攻撃してきた朝鮮水軍を深追いしすぎて
罠にはまったというほうが正確である。
安骨浦海戦では九鬼嘉隆の鳥羽水軍や
加藤 嘉明の伊予水軍(河野水軍系)も大打撃を受けた。
水軍の大敗を聞いた秀吉は
自らの渡海を思いとどまり、水軍に対して
李舜臣と戦うことを避けるよう指示したと言われる。
日本の水軍は、それ以降、文禄の役を通じて
日露戦争のときのロシア艦隊が旅順港に閉じこもったように
釜山港などに閉じこもり海戦を避けた。
慶長の役が始まったとき李舜臣は失脚していた。
慶長2(1597年)三道水軍統制使・元均(ウォンギュン 원균)
が率いた朝鮮水軍は巨済島(漆川梁 칠천량)海戦で壊滅する。
150隻(小船を含めれば数百隻?)の船は
慶尚右水使・裴楔が率いて戦線を離脱した12隻
を除いてすべて破壊され元均、全羅右水使・李億祺
忠清水使・崔湖の三人の提督が戦死した。
このあと提督に復帰した李舜臣は残された十数隻の戦艦を率いて
おしよせた数百隻の日本水軍を鳴梁(명량)海戦に破る。
この海戦で来島水軍の来島通総戦死。
秀吉の死によって、この戦役は終わる。
五大老が半島からの撤兵を指令したとき
小西行長は明と李舜臣の水軍に撤退を阻まれていた。
救援にかけつけた島津水軍と李舜臣の間に
露梁海戦(노량 해전)が勃発する。
この海戦で名提督、李舜臣戦死。
島津水軍は甚大な被害を出しながらも
小西行長の救出に成功する。
樺山氏などの薩摩の水軍を担った家の先祖たちも
この海戦に参加していたようである。
薩摩が主流となった明治の海軍は密かに李舜臣を尊崇していたと
司馬遼太郎は述べるが、李舜臣の生き方や死に方は薩摩武士の
美意識にかなうものがあったことは想像しうる。
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/09/0906.htm
阿波水軍と朝鮮の役
http://www.searchnavi.com/~hp/tojin/leess/
韓国ドラマに描かれた藤堂高虎
http://homepage2.nifty.com/H-Suga/kan9.html
淡路島の西淡町江尻、江善寺に
脇坂水軍の戦死者を弔う
高麗陣打死衆供養碑があるとのこと。
コメント
反対に嫌われているのは件の秀吉と伊藤博文だとか。(前者は当然ですが)
なんぼ経済がしんどいといってもこの時代に生まれなくてよかった。
(生まれて今 輪廻してるだけかもしらんけど・・)
リーマン・ショックのあと
どうやら中国が浮かんで日本は沈んでいるかも。
>輪廻してるだけ
インドですねえ^^