脇坂家 洲本・大洲・飯田・龍野城主
2009年11月4日 歴史物
脇坂家は兵庫県とのかかわりが深い殿様である。
大名としての脇坂氏は洲本城主としてはじまり
江戸時代の大半を龍野城主としてすごした。
江戸幕府にあっては老中を出す家柄として
幕政への関与も大きかった。
初代の安治は丹波黒井城攻防戦で勇者として歴史に登場する
戦国の勇将であるとともに歌を好み晩年は京都で隠居した風流人でもあった。
洲本城主として三好冬康が築いた強大な安宅水軍を引き継ぎ、朝鮮の役では主要な水軍司令官として東瀬戸内から大阪湾にかけての海賊衆(笠岡、塩飽、由良 その他)を束ねた。
関が原合戦では東軍に寝返ったとされるが、実際には早くからの東軍支持派であって表向西軍支持を装っていたというほうが正確である。
合戦後、洲本城主から大洲城主となり大阪の陣をむかえる。
このとき豊臣家に弓を引くことを拒否し大名をやめて京都で隠居した。 しかし、脇坂家は取り潰しにはならず、飯田や龍野の領主として存続した。
たつの市は兵庫県の西部、揖保川沿いに広がる。
旧揖保郡の大半を占めている。
揖保とは飯穂(いいほ)のことで稲穂を意味するらしい。
兵庫県最古(全国的にも最古級?)の古墳群を持つ
川の流域にふさわしい名前である。
風土記は伝説時代の大和朝廷の勇者
野見宿禰と龍野(立野)を結びつけている。
http://filologos.diarynote.jp/200501241405090000/
たつの市には鞆の浦とともに
瀬戸内の古都に数えられる室津がある。
http://ventoeluz.exblog.jp/12353718/
室津を外港とする龍野藩と鞆につながる福山藩は
幕政にかなりの影響力を持った。
福山藩からでた阿部正弘は、その典型である。
龍野城下は赤とんぼの童謡、そうめん、醤油で有名。
龍野は17世紀後半(1672年~)以後
幕府の重役を輩出した脇坂家の城下町として維新をむかえた。
「また出たと坊主びっくり貂(てん)の皮」という川柳は
寺社奉行として、また、老中として辣腕をふるった
脇坂安董(やすただ)を詠んだものである。
藩主の家名は
戦国期の勇将、脇坂安治に由来し
馬印としての貂(てん)の皮も
脇坂家を象徴するものとして
代々伝えられたのであるが
龍野藩時代の脇坂家は
血統としては初代の安治には
つながっていない。
春日局は稲葉 正成(まさなり)の後妻になるが
自分の子供ではなく
夫の先妻の子供の血筋(堀田家)を幕府の重役に押し上げている。
龍野藩主としての脇坂家は譜代のあつかいである。
それ以前の淡路洲本、伊予大洲、信州飯田と転封を重ねた
脇坂家が外様であったのに、その後
なぜ譜代になったのかというと
堀田家から養子をむかえたことによる。
龍野城は、その脇坂安政によって1672年に築かれた。
初代安治は朝鮮の役で東瀬戸内の水軍を率い
緒戦では大敗するが、その後はしぶとく対馬と釜山を結ぶ補給線を守り抜いた。
日本軍が、ある程度、無事に撤退できたことに貢献した諸将のひとりである。
http://filologos.diarynote.jp/200911120655488028/ 李舜臣
http://filologos.diarynote.jp/200911010003256009/ 朝鮮の役 海戦
写真は、関が原合戦屏風
脇坂家の旗印(輪違い紋)が立ちならんでいます。
大名としての脇坂氏は洲本城主としてはじまり
江戸時代の大半を龍野城主としてすごした。
江戸幕府にあっては老中を出す家柄として
幕政への関与も大きかった。
初代の安治は丹波黒井城攻防戦で勇者として歴史に登場する
戦国の勇将であるとともに歌を好み晩年は京都で隠居した風流人でもあった。
洲本城主として三好冬康が築いた強大な安宅水軍を引き継ぎ、朝鮮の役では主要な水軍司令官として東瀬戸内から大阪湾にかけての海賊衆(笠岡、塩飽、由良 その他)を束ねた。
関が原合戦では東軍に寝返ったとされるが、実際には早くからの東軍支持派であって表向西軍支持を装っていたというほうが正確である。
合戦後、洲本城主から大洲城主となり大阪の陣をむかえる。
このとき豊臣家に弓を引くことを拒否し大名をやめて京都で隠居した。 しかし、脇坂家は取り潰しにはならず、飯田や龍野の領主として存続した。
たつの市は兵庫県の西部、揖保川沿いに広がる。
旧揖保郡の大半を占めている。
揖保とは飯穂(いいほ)のことで稲穂を意味するらしい。
兵庫県最古(全国的にも最古級?)の古墳群を持つ
川の流域にふさわしい名前である。
風土記は伝説時代の大和朝廷の勇者
野見宿禰と龍野(立野)を結びつけている。
http://filologos.diarynote.jp/200501241405090000/
たつの市には鞆の浦とともに
瀬戸内の古都に数えられる室津がある。
http://ventoeluz.exblog.jp/12353718/
室津を外港とする龍野藩と鞆につながる福山藩は
幕政にかなりの影響力を持った。
福山藩からでた阿部正弘は、その典型である。
龍野城下は赤とんぼの童謡、そうめん、醤油で有名。
龍野は17世紀後半(1672年~)以後
幕府の重役を輩出した脇坂家の城下町として維新をむかえた。
「また出たと坊主びっくり貂(てん)の皮」という川柳は
寺社奉行として、また、老中として辣腕をふるった
脇坂安董(やすただ)を詠んだものである。
藩主の家名は
戦国期の勇将、脇坂安治に由来し
馬印としての貂(てん)の皮も
脇坂家を象徴するものとして
代々伝えられたのであるが
龍野藩時代の脇坂家は
血統としては初代の安治には
つながっていない。
春日局は稲葉 正成(まさなり)の後妻になるが
自分の子供ではなく
夫の先妻の子供の血筋(堀田家)を幕府の重役に押し上げている。
龍野藩主としての脇坂家は譜代のあつかいである。
それ以前の淡路洲本、伊予大洲、信州飯田と転封を重ねた
脇坂家が外様であったのに、その後
なぜ譜代になったのかというと
堀田家から養子をむかえたことによる。
龍野城は、その脇坂安政によって1672年に築かれた。
初代安治は朝鮮の役で東瀬戸内の水軍を率い
緒戦では大敗するが、その後はしぶとく対馬と釜山を結ぶ補給線を守り抜いた。
日本軍が、ある程度、無事に撤退できたことに貢献した諸将のひとりである。
http://filologos.diarynote.jp/200911120655488028/ 李舜臣
http://filologos.diarynote.jp/200911010003256009/ 朝鮮の役 海戦
写真は、関が原合戦屏風
脇坂家の旗印(輪違い紋)が立ちならんでいます。
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