大徳寺

2015年11月15日 歴史物
大徳寺の開祖 宗峰妙超 (大燈国師 播磨国龍野出身)は長期にわたり乞食行を実行した自由人であった。朝廷の要請で嫌々 大寺院の創始にかかわったふしもある。

その遺戒に「一人あり、野外に綿絶し、一把茅底、折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、専一に己事究明する者は、老僧と日日相見、報恩底の人なり」というものがある。寺院に所属せず、野に伏し草の根を煮て暮らすといえど、まことに禅の道を求める者は、私と日々まみえているに等しい親愛なる修行者なり...とでもいうものだろうか。

大徳寺は その歴史を通じて室町幕府の保護を返上したり
紫衣事件で江戸幕府と衝突したり(沢庵 出石出身)と幕府権力には相当反抗的である。

逆に大徳寺を「天下無双の禅苑」として待遇した後醍醐天皇や
皇室出身とされている一休さん (第47代首座)
現在の勅使門の寄進者 後水尾天皇などにみられるように
幕府権力が圧倒的であった時代でも大徳寺は天皇家寄りであった。

東瀬戸内を代表する戦国大名であった三好氏や
千利休をはじめとする堺の町衆と大徳寺の関係も密接である。

三好義継が建立した大徳寺聚光院(じゅこういん)には
三好長慶と千利休の墓が並ぶ。
これは長慶が創建した堺の龍興山南宗寺(なんしゅうじ)が
利休が禅の修業をしたところであり さらに利休の最初の奥さんは
長慶の妹であったという縁による。

長慶は十代から近畿有数の戦国大名として活動し
最初の天下人ともいうべき地位にのぼりつめながら
長男の急死にショックをうけ 心を病んで40過ぎで没した。

そのほかにも大徳寺には織田信長 石田三成など
非業の死をとげた人たちの墓や
豊臣秀次(三好信吉)の遺品ともいうべき唐門が存在する。
ここは死後のアジール(駆け込み寺)というべきか。

大徳寺 瑞峯院の石庭は昭和の作庭家 重森三玲の作品。
三玲もまた 京都の庭つくりの大御所 植治(小川治兵衞)の作庭思想にかなり批判的であったひとである。

大徳寺のバックボーンには多数派(これが「普通」という姿勢)への反骨精神があるのかもしれない。

そうえいば江戸幕府に弾圧された女歌舞伎の創始者 出雲阿国の墓も大徳寺高桐院





龍寶山大徳寺領について

大徳寺開祖 宗峰妙超の母は播磨の豪族 赤松円心の姉であり、父系は龍野の浦上庄の名前を冠する浦上氏。後醍醐天皇が認めた最初の大徳寺領のひとつも浦上庄である。

浦上氏は 後に岡山県で戦国大名となる
彼らは室津から牛窓の海域を中心に海沿いに展開した東瀬戸内の勢力といえる。
浦上氏の領国は五大老のひとりになる宇喜田家に引き継がれた。

大徳寺は浦上庄以外にも本龍野付近に小宅庄を持っていた。
揖保川左岸には大徳寺領小宅庄・二条院領弘山庄・法隆寺領斑鳩庄が並ぶ。
播磨には龍野以外に明石の大徳寺領林崎庄の名前が見える。
(林崎 「はやしさき」の「は」は、マルハの「ハ」 日本有数の水産会社 発祥の地)

大徳寺領の分布を見ると
播磨 京都 琵琶湖東岸 岐阜の長良川・木曽川の間
九頭竜川流域などが古い。


後醍醐天皇が雲林院の地を寄進している。

後醍醐天皇在位中の上皇のひとり
北朝の花園上皇は伴野庄(信濃国佐久郡)
と下総葛西御厨を永代大徳寺領として寄進

新田義貞は三方西荘(播磨国宍粟郡安積保)を大徳寺に寄進した。
「あずみ」という地名は海洋系の豪族の存在を強く示唆する。

近江国犬上郡西今村(現 彦根市西今町)

美濃国厚見郡長森庄

紀伊国高家荘
これは御坊市の高家王子?

洛中土御門四町町 太秦村 浄土寺村
などにも細かく大徳寺領が分布していた。

記録に残る大徳寺領以外にも
一時的に有した庄は多数あったと思われる。

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