神戸市東灘区深江(1)
2016年9月15日 地歴 コメント (2)一昔前の阪神間の人たちにとって東灘区深江のイメージは漁港。魚を買いにいくところでした。 今でも鮮魚の神戸東部卸売市場は深江の埋立地に健在。六甲山を遠くに眺め、市場内で鮨を食べるのもよいものです。
それ以前、兵庫県武庫郡本庄村と呼ばれていた時代の深江は、阪神間モダニズムを担う地域のひとつでありました。ハンター坂に名を残す英国系の財閥、範多財閥の二代目は深江の海沿いに別荘をかまえて住んでいました。海を眺める別荘住まいを楽しみ、死ぬ直前には豪華な小帆船を買い入れ、瀬戸内海を帆走しつつ、風光を愛で、旅先に死んだと聞き及びます。 英国人を父に持ち、母は大阪の商家の娘であった彼は凡庸な二代目ではなく、父の事業を継いで日本の近代造船業の発展に貢献しています。
財閥の当主ばかりでなく、当時の財閥の大番頭さんたちも深江に競って家をかまえました。最初は別荘として、阪神電車の高速化が進んだ後には本宅として使われたようです。今でも、深江には大会社の重役さんが、ひっそりと住んでおられます。阪神大震災までの深江には新鮮な魚が手に入る市場があり、駅前にはダイエーがあって地下でつながっていて、酒肴を楽しむための買い物に便利な土地柄でありました。
戦前の深江は、海岸から少し内陸に入ると400坪ほどの広大な長方形の芝生の広がりを囲んで十数件の洋館が密集する景観もあったそうです。こちらに住んでいたのは欧州人も多かったようです。1995年の震災で大打撃を受けましたが、今でも数軒は洋館建築時代の面影を残しています。歴史上の呼び名は「深江文化村」。もう少し違う名前だったら、深江も違うイメージで見られていたかもしれません。 洋風の学校建築も神戸商船大や本庄小があり、洋風帆船が出入りする風景とともに深江の「洋」の部分をなしていました。
深江の地元民も、負けてはいませんでした。地元の素封家が自宅として作った建物の白黒写真が残っています。 昭和初期に流行した日本の和洋折衷のスペイン風建築というものらしいです。 深江駅近くに存在したゲンズカフェの外観も、この昭和初期の流行を踏襲したものでした。
深江はヨーロッパのモダニズムと酒蔵や銭湯がある和の世界が入り混じる興味深い地域であり続けようとしています。
参考ブログ
http://blog.goo.ne.jp/rico914/e/59a97ef20075a4cd87c9237cd1dada93
それ以前、兵庫県武庫郡本庄村と呼ばれていた時代の深江は、阪神間モダニズムを担う地域のひとつでありました。ハンター坂に名を残す英国系の財閥、範多財閥の二代目は深江の海沿いに別荘をかまえて住んでいました。海を眺める別荘住まいを楽しみ、死ぬ直前には豪華な小帆船を買い入れ、瀬戸内海を帆走しつつ、風光を愛で、旅先に死んだと聞き及びます。 英国人を父に持ち、母は大阪の商家の娘であった彼は凡庸な二代目ではなく、父の事業を継いで日本の近代造船業の発展に貢献しています。
財閥の当主ばかりでなく、当時の財閥の大番頭さんたちも深江に競って家をかまえました。最初は別荘として、阪神電車の高速化が進んだ後には本宅として使われたようです。今でも、深江には大会社の重役さんが、ひっそりと住んでおられます。阪神大震災までの深江には新鮮な魚が手に入る市場があり、駅前にはダイエーがあって地下でつながっていて、酒肴を楽しむための買い物に便利な土地柄でありました。
戦前の深江は、海岸から少し内陸に入ると400坪ほどの広大な長方形の芝生の広がりを囲んで十数件の洋館が密集する景観もあったそうです。こちらに住んでいたのは欧州人も多かったようです。1995年の震災で大打撃を受けましたが、今でも数軒は洋館建築時代の面影を残しています。歴史上の呼び名は「深江文化村」。もう少し違う名前だったら、深江も違うイメージで見られていたかもしれません。 洋風の学校建築も神戸商船大や本庄小があり、洋風帆船が出入りする風景とともに深江の「洋」の部分をなしていました。
深江の地元民も、負けてはいませんでした。地元の素封家が自宅として作った建物の白黒写真が残っています。 昭和初期に流行した日本の和洋折衷のスペイン風建築というものらしいです。 深江駅近くに存在したゲンズカフェの外観も、この昭和初期の流行を踏襲したものでした。
深江はヨーロッパのモダニズムと酒蔵や銭湯がある和の世界が入り混じる興味深い地域であり続けようとしています。
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http://blog.goo.ne.jp/rico914/e/59a97ef20075a4cd87c9237cd1dada93
コメント
本庄小の「本庄」というのは「本来の芦屋郷の本拠地」という意味なのですが、芦屋の名声は旧精道村(芦屋市)に完全にもっていかれてますね。芦屋市がパチンコをしめだしたとき、彼らが深江に集中して、そのイメージが定着してしまったと、土地の人たちは言ってます。私はヨソ者なので、別に深江に執着することもないのですが、復活に向けて町おこしの動きがあれば参加もしたいと思ってます。