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道後温泉に建てられていたという石碑、伊予湯岡碑は六朝風の漢文で綴られていた。碑は失われたが、いくつかの書物に引用されている。『釈日本紀』『万葉集註釈』『伊予国風土記逸文』
古代の日本で、この文章が書けたのかと疑われるような名文。温泉を楽しんでいると書かれているのは聖徳太子と、その師で高句麗僧の恵慈、葛城臣(烏那羅)。
「法興六年(596年)十月、歳丙辰にあり。我が法王大王と慧慈の法師及葛城臣と、夷与の村に逍遥び、正しく神の井を観て、世の妙しき験を歎きたまひき(法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験)」と始まる。
聖徳太子を「我が法王大王」と賛美するのは太子の領国であった伊予ならではのこと。
碑の本文
山岳(やま)の巖崿(いはぎし)を窺ひ望みて、反(かへ)りて子平(しへい)のごと往(ゆ)かまく冀(こひねが)ひ、椿樹(つばき)は相廕(あひおほひ)て穹窿(おほぞら)なし、実(まこと)に五百(いほ)つ蓋(きぬがさ)を張れるかと想ふ。臨朝(あした)に鳥啼きて戯(たはぶ)れ哢(さへづ)る。何ぞ乱(さや)げる音(こゑ)の耳に聒(かしま)しきを暁(さと)らむ。丹(に)の花は葉を巻(あつ)めて映照(てりは)え、玉の菓(このみ)は葩(はなびら)を弥(おほ)ひて井に垂る。其の下を経過(へす)ぎて優(ゆた)に遊ぶべし。
窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊
かなり前にコピーした読み下し文と現代語訳を貼り付けました。
山や岡の巌の崖を望んで、六朝の詩人、子平の詩にあるように登っていけたらという思いにとらわれる。椿の木は互いに覆い合って無数の絹傘を張ったようである。朝には鳥が鳴いてたわむれ、さえずるがその鳴き声もやかましくは感じられない。赤い花は緑の葉を集めて照り映え、玉のような果実は花びらを覆って、温泉の上に垂れている。この見事な椿の木のもとに、ゆったりと遊びたい。
石碑は、地震で倒壊したとも言われています。
古代の日本で、この文章が書けたのかと疑われるような名文。温泉を楽しんでいると書かれているのは聖徳太子と、その師で高句麗僧の恵慈、葛城臣(烏那羅)。
「法興六年(596年)十月、歳丙辰にあり。我が法王大王と慧慈の法師及葛城臣と、夷与の村に逍遥び、正しく神の井を観て、世の妙しき験を歎きたまひき(法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験)」と始まる。
聖徳太子を「我が法王大王」と賛美するのは太子の領国であった伊予ならではのこと。
碑の本文
山岳(やま)の巖崿(いはぎし)を窺ひ望みて、反(かへ)りて子平(しへい)のごと往(ゆ)かまく冀(こひねが)ひ、椿樹(つばき)は相廕(あひおほひ)て穹窿(おほぞら)なし、実(まこと)に五百(いほ)つ蓋(きぬがさ)を張れるかと想ふ。臨朝(あした)に鳥啼きて戯(たはぶ)れ哢(さへづ)る。何ぞ乱(さや)げる音(こゑ)の耳に聒(かしま)しきを暁(さと)らむ。丹(に)の花は葉を巻(あつ)めて映照(てりは)え、玉の菓(このみ)は葩(はなびら)を弥(おほ)ひて井に垂る。其の下を経過(へす)ぎて優(ゆた)に遊ぶべし。
窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊
かなり前にコピーした読み下し文と現代語訳を貼り付けました。
山や岡の巌の崖を望んで、六朝の詩人、子平の詩にあるように登っていけたらという思いにとらわれる。椿の木は互いに覆い合って無数の絹傘を張ったようである。朝には鳥が鳴いてたわむれ、さえずるがその鳴き声もやかましくは感じられない。赤い花は緑の葉を集めて照り映え、玉のような果実は花びらを覆って、温泉の上に垂れている。この見事な椿の木のもとに、ゆったりと遊びたい。
石碑は、地震で倒壊したとも言われています。
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