パソ通時代 歴史フォーラムへの投稿記事? 詳細不明

古墳時代中期 百済・新羅と倭の関係

日本では、人質というと服属儀礼のような印象があります。三国史記を読んでの印象では、三国における人質は服属の証しというより王族による命がけの外交を意味するように思われます。「質」という言葉は、担保を意味しますがまさに相手国から軍事的援助を引き出す前提としての担保を意味します。「質」を受け入れておいて、軍事的支援はしないとなると、銀行が担保だけとって、貸し出しはしないというのに等しい違約行為のようです。

ここで百済と新羅の倭での外交活動を推測しますと高句麗の圧迫に対する軍事支援とともに、百済・新羅が任那(加耶)諸国を蚕食するにあったって倭が介入しないことを目的としたと思われます。

百済の場合は、概ね、この外交目的を達したようです。

405年 腆支王即位

晋書安帝紀(413年)に倭と高句麗の入貢記事があります。新羅の未斯欣は、402年~418年まで倭に滞在しています。16年といえば当時の人の平均寿命からして人生の相当な部分を倭ですごしたことになります。3年間は百済の腆支の滞在期間と重なります。腆支が帰国して百済王となったことも承知していたことと思われます。

417年、未斯欣を派遣した実聖王は、未斯欣の兄、納祇によって殺されます。倭は、このとき未斯欣を新羅王として擁立しようとして失敗したと推定されます。


三国史記 新羅本紀及び朴堤上列伝による

421年 倭王讃 遣使
125年 倭王讃 遣使
420-428 ? 腆支王没
430年 倭王讃 遣使
438年 倭王讃の死、弟の珍 遣使

腆支王の時代に倭と百済の関係が飛躍的に発展した一方、倭と新羅との関係が決定的に悪化した時期でもあります。

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