京都清水寺境内に東北地方に攻め寄せた大軍を何度も翻弄した蝦夷の首領たち、阿弖流為と母礼の石碑がある。

清水寺は征夷大将軍 坂上田村麻呂が彼の好敵手だった蝦夷の首長たちの鎮魂のために建立した。

789年(延暦8年)、征東大将軍 紀古佐美は、5万の兵を率いて北上川流域(日高見国)に侵攻。ここに、13年にわたって3人の将軍が交代する戦争が始まった。

この時、初めて蝦夷の首領「阿弖流為:アテルイ」が記録に登場します。
アテルイは記録によっては悪路王とも書かれる。
悪路は首領を意味する「あじ(按司)」または「あるじ(主)」の当て字か?
大墓公(おおものきみ)、赤頭王との称もある。

このときの朝廷軍は巣伏(すぷせ)の戦いに完敗し敗走。

794年、征夷大将軍 大伴弟麻呂は、10万もの大軍を進めたが、朝廷軍 再び敗退。

797年、坂上田村麻呂が征夷大将軍となる。

彼は渡来人、阿智使主(あちのおみ)の子孫。
背が高く、がっしりした体格で
肌はピンク色、毛はブロンド(赤面黄鬚)

田村麻呂は801年に桓武天皇から節刀を賜わり少数精鋭の軍をもって東北に侵攻した。

802年には。ついにアテルイの本拠地に入り、胆沢城を築く。

アテルイは。盟友モレとともに田村麻呂に投降。
田村麻呂は朝廷に2人の助命を嘆願したが、貴族たちの会議はこれを拒絶。

802年8月13日、2人は河内国椙山(現大阪府枚方市)で処刑された。

蝦夷の勇者たちは死んだが、彼らの後には前九年、後三年の役の英雄 安倍貞任・宗任が続き、その後、独立を回復した東北は奥州平泉王国を成立させ、馬と黄金の国として繁栄した。



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