阪神間の河川史

2018年2月3日 地歴
川は上流から見て、左を左岸、リヴ・ゴーシュ rive gauche 、右を リヴ・ドロワ rive droite という。セーヌ川の流路が変動したというのは聞かないが、阪神間の川は流路の変動が実に激しかった。

武庫川と芦屋川についていうと、今の武庫川の左岸は尼崎、右岸が西宮だが、かつての武庫川は大正末期まで、今の甲子園筋を流れていて、左岸が鳴尾、右岸が今津だった。

川をはさんで中心部の移動もあった。

芦屋市は、今では左岸が中心部だが、これはJRの駅が左岸にできて、そこが中心部になったことによる。かつての芦屋郷は右岸が中心で、その西端は岡本あたりまで広がっていた。

昔は、ひとつの川の流域が郷を形成したが、だんだんと川が境界となり、それにともなって水争いも激化していった。右岸の村が水利権をにぎると、左岸の村は渇水期には日干しになる。鳴尾義民碑は、そのような抗争のひとつを伝える。

阪神間の川は、大方が天井川で、海に対してまっすぐ流れこむように流路が人工的に固定されている。 夙川にしても、越水の丘の南側で入り江に注いでいたのを、一直線に海に注ぐように改修された。 これにより、西宮市中心部の陸地化が進行した。 時期的には、少なくとも数百年は、さかのぼる。 東灘の横川や、兵庫の湊川は、それとは反対に海と平行して横に流されている。

湊川の改修は近代だが、横川の開削は弥生時代から古墳時代にさかのぼる可能性もある。古代条里制の時代には、すでにその存在が確認できる。伝説では古墳時代に兵庫県南部、奈良盆地、新潟県西部に勢力を伸ばし、いくつもの豪族(国造)を派生させた神話中の人物 ウヅヒコが青い海亀(あおき)に乗って上陸した地とされ、青木(おうぎ)の地名が残る。このあたりからは銅鐸が出土している。

場所としては、住吉川と芦屋川の間の海岸の微高地にあたる。


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