兵庫県武庫郡は尼崎市西部から神戸市須磨区におよぶ非常に巨大な広域郡でしたが、その母体になった律令制の摂津國武庫郡は尼崎の蓬川(よもがわ)から西宮中部までの領域でした。
阪神本線でいうと出屋敷から西宮駅の少し西まで。 阪急だと武庫之荘から西宮北口と夙川の間、JR立花から さくら夙川。 武庫之荘の土地が、尼崎というより西宮との親近性を持つのは同じ武庫郡に属していた歴史によります。
その西が芦屋川、住吉川から生田川に及ぶ、菟原郡(うはらぐん)になります。
川から川へというと、今の感覚では川が境界というように思うのですが、古代の場合は芦屋川流域から住吉川流域へというように「流域」を中心とした地区割りが必要です。
古代の郡は、川を境界とするより、川の両岸にまたがって成立するほうが多く、これは政治的なまとまりが川の治水をめぐって成立したことや、古代の交通手段での舟の重要性によると思われます。
中世から近世にかけての水争いは、川の両岸が対立することが多いのですが、これは地域の共同体が川を境界として分断されていった歴史を反映しているようです。
武庫郡は、古墳時代に数百艘の舟が停泊できるといわれた武庫湊を擁していました。 これは今の西宮戎と広田神社の間に広大な入り江がひろがっていたことによると思われます。広田神社に行くと、そのころの地図を見ることができます。
西国街道が札場筋と合流するあたりが入江の北端だったらしく、御前の浜といわれ、漁民も、そのあたりに多く住んでいたようです。 入江が埋まるにつれて漁民も西宮戎のほうに移り、入江を利用した湊も、新しい港 今津に移っていったと考えられます。
参考サイト
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55402956.html
阪神本線でいうと出屋敷から西宮駅の少し西まで。 阪急だと武庫之荘から西宮北口と夙川の間、JR立花から さくら夙川。 武庫之荘の土地が、尼崎というより西宮との親近性を持つのは同じ武庫郡に属していた歴史によります。
その西が芦屋川、住吉川から生田川に及ぶ、菟原郡(うはらぐん)になります。
川から川へというと、今の感覚では川が境界というように思うのですが、古代の場合は芦屋川流域から住吉川流域へというように「流域」を中心とした地区割りが必要です。
古代の郡は、川を境界とするより、川の両岸にまたがって成立するほうが多く、これは政治的なまとまりが川の治水をめぐって成立したことや、古代の交通手段での舟の重要性によると思われます。
中世から近世にかけての水争いは、川の両岸が対立することが多いのですが、これは地域の共同体が川を境界として分断されていった歴史を反映しているようです。
武庫郡は、古墳時代に数百艘の舟が停泊できるといわれた武庫湊を擁していました。 これは今の西宮戎と広田神社の間に広大な入り江がひろがっていたことによると思われます。広田神社に行くと、そのころの地図を見ることができます。
西国街道が札場筋と合流するあたりが入江の北端だったらしく、御前の浜といわれ、漁民も、そのあたりに多く住んでいたようです。 入江が埋まるにつれて漁民も西宮戎のほうに移り、入江を利用した湊も、新しい港 今津に移っていったと考えられます。
参考サイト
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55402956.html
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