明石の古代史

2004年12月24日 地歴
明石は魏志倭人伝にいう水行勢力の面影が濃厚です。
五世紀、兵庫県最大の古墳、五色塚(神戸市垂水区)を築いた古墳時代の明石の王者の勢力は西は加古川から東は武庫川流域まで 兵庫県南東の海岸部のほとんどをカバーしていたようです。

古墳時代の明石の中心は垂水区ではなく
処女塚・求女塚のある神戸市東灘・灘区方面だったかもしれません。
尼崎から高砂までが明石の国であった時代には
英語で Kobe Bay と呼ばれる大阪湾北西部こそが明石浦だった??
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050420/p1
これはとんでもない意見に見えますが
明石国造の遠祖が祭られている神社が阪神間の六甲山中腹に
位置していることを思えば、それほどびっくりすることでもないかもしれません。
明治44年刊行の「西摂大観」は明石を西摂のなかに入れていますし
摂津国成立にあたって古墳時代の明石国東部のかなりの部分を摂津に入れた
というところが妥当かと思っています。

明石国造は大和朝廷の成立にもかかわる伝説も持っています。
源氏物語は明石出身の姫君がついに皇后として宮中を制する物語でもあります。
明石が朝廷を制するフィクションなのです。
紫式部曰く「歴史の中に歴史はなく、フィクションの中に歴史がある」

古事記と日本書紀には明石に関して大きな食い違いがあります。
ヤマト(倭)国造の祖であるウヅヒコを古事記は明石海峡出身
とするのに対して、書紀は豊後水道とするところ。

始祖伝説 -- 明石国造の祖は
古事記によれば明石海峡の国津神ウヅヒコ(サオネツヒコ)
日本書紀によればシイネツヒコ。 
海道を熟知していたと書かれている。 
彼は、土地の伝説によれば青い海亀に乗って
神戸市東灘区青木(おうぎ)の浜に上陸したという。 
まさに浦島太郎。今は上陸地点から真北にある
六甲山中腹、阪急岡本駅北方の山に祭られている。
この神社が古来船乗りたちが重んじていた
「灘のひとつ火」。 保久良神社である。
海道を遠く離れた新潟県の頸城(久比岐国造)も彼を
始祖にあおいでいる。 天橋立には彼の銅像がある。

海道 -- 古語では「わたつみち」。 
北海道(きたのわたつみち)と言えば、日本海沿岸を
行くルートを指した。 

天正4年の播州府中記は明石氏が明石郡司(ぐんじ)家からでたことを伝え、
明石氏が古墳時代の明石国造家ともつながりがあることを示唆しています。

明石国造は奈良県の倭(やまと)国造、新潟県の頸城(久比岐)国造と同族であり
共通の先祖をまつる神社を、その勢力圏内(六甲山麓)にかかえています。
彼らは古墳時代を代表する水行勢力のひとつと言っても、そうはずれてはいますまい。

ちなみに今年の大河ドラマの主役、直江殿の先祖も頸城郡直江庄の出身であり
「あかし」「やまと」「くびき」をつなぐ線の延長線上にいるのかもしれません。

明石氏は天正3年(1575)夏、領主明石越前守は岩屋神社で雨乞いの儀式を
とりおこなったと伝えられます。 これには古墳時代の王者の面影があります。

蘇我蝦夷が雨乞いをさせたが、微雨のみで効が見られなかった。
その後、皇極女帝が自ら天に祈ると、突如大雨が降った(日本書紀 皇極元年)

明石氏が最終的な本拠とした枝吉城は明石郡衛の北西約80メートルの
ところに位置する。 郡衛の裏山といってもよいところである。

枝吉は、もともとは「しきつ」と読んだようである。 
この音は「磯城」に通じる。 「敷島の大和」の「しき」?
なにしろ明石国造と倭(やまと)国造は同族ですからね (^^;

http://filologos.diarynote.jp/200508191801530000 明石史


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