明石の古代史は、こちらへどうぞ
http://filologos.diarynote.jp/200412260015050000/
写真は大阪夏の陣合戦屏風に描かれた小笠原氏の軍勢。
小笠原の紋章、三階菱の旗幟がはためいています。
16世紀半ば、当時の畿内の覇者、三好長慶が三木を
攻めたときも、三階菱が明石の野山を埋めたと伝えられています。
江戸時代の兵庫県では龍野藩と明石藩が
小笠原氏によってひらかれました。
http://filologos.diarynote.jp/200905032245131690
戦国時代の西宮の殿様 三好氏
古代から中世にかけて
国造家の流れをくむという明石氏は荘園公領制の時代も生き抜きます。
明石川を少しさかのぼったところにある枝吉に城下町を持っていました。
戦国末期には明石祐行(すけゆき)が三好氏と行動を共にしています。
三好康長(笑岩)の家督を次いだ三好信吉(豊臣秀次)が滅ぼされたとき
明石氏も連座して滅ぼされました。 最後の当主は明石則実(のりざね)。
http://filologos.diarynote.jp/200904212045093319 明石氏
http://filologos.diarynote.jp/200908270922314912 明石国造
明石氏が去ったあと、明石川河口の近くに高山右近が船上城を築き
城下町をつくります。 風土記にいう林潮の地にあたります。
そのあと小笠原氏が赤松山に現在の明石城を築きます。
現在まで続く明石の城下町のはじまりです。
http://freki.exblog.jp/4605817 美嚢郡
さて、近世に入っても、国といえば「藩」であり
明石のくには健在でした。 明石藩は明石郡、美嚢郡に
またがり東播166ヶ村を支配し、1704年の史料によりますと
968隻と千近い船を擁して水行勢力の面目を維持しておりました。
この船団の一部が明治に入って水産会社の雄、マルハを
生みだす母体となります。マルハの「ハ」は風土記の
時代以来、播磨灘随一の漁場を支配した港町、林崎(明石市)
の「ハ」なのだそうです。
神戸市垂水区、西区は、かつての明石郡の中枢をしめている。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/89/siru/history/history/01_hazi.html
神戸ワインとして知られるワインたちは、実は播州明石産なのである。
そして百数十年前、明石郡では明治政府の国家プロジェクトとして醸造用欧州系葡萄栽培とワイン造りが先進的に試みられていた。
プロジェクトは明治20年代に世界を襲ったフィロキセラ虫の大災害で壊滅したが日本の近代的なワイン造りはこの地で初めて大規模に試みられた。
http://www.paw.hi-ho.ne.jp/seisui/budoen.html
さかのぼって、たばこも、近代たばこ産業は明石の岩岡に始まる。
江戸時代、藩主松平直明によってはじめられた明石藩の専売事業
タバコ栽培は、近代に入ってアメリカから新品種(黄タバコ)と
新技術が導入され、専売公社に引き継がれた。
その巨大な工場跡地が現在のショッピングセンター
マイカル明石になっている。
http://freki.exblog.jp/7826630 明石 風土記
http://freki.exblog.jp/7695275 林
http://freki.exblog.jp/1794747 オシャタカ舟
http://filologos.diarynote.jp/200412260015050000/
写真は大阪夏の陣合戦屏風に描かれた小笠原氏の軍勢。
小笠原の紋章、三階菱の旗幟がはためいています。
16世紀半ば、当時の畿内の覇者、三好長慶が三木を
攻めたときも、三階菱が明石の野山を埋めたと伝えられています。
江戸時代の兵庫県では龍野藩と明石藩が
小笠原氏によってひらかれました。
http://filologos.diarynote.jp/200905032245131690
戦国時代の西宮の殿様 三好氏
古代から中世にかけて
国造家の流れをくむという明石氏は荘園公領制の時代も生き抜きます。
明石川を少しさかのぼったところにある枝吉に城下町を持っていました。
戦国末期には明石祐行(すけゆき)が三好氏と行動を共にしています。
三好康長(笑岩)の家督を次いだ三好信吉(豊臣秀次)が滅ぼされたとき
明石氏も連座して滅ぼされました。 最後の当主は明石則実(のりざね)。
http://filologos.diarynote.jp/200904212045093319 明石氏
http://filologos.diarynote.jp/200908270922314912 明石国造
明石氏が去ったあと、明石川河口の近くに高山右近が船上城を築き
城下町をつくります。 風土記にいう林潮の地にあたります。
そのあと小笠原氏が赤松山に現在の明石城を築きます。
現在まで続く明石の城下町のはじまりです。
http://freki.exblog.jp/4605817 美嚢郡
さて、近世に入っても、国といえば「藩」であり
明石のくには健在でした。 明石藩は明石郡、美嚢郡に
またがり東播166ヶ村を支配し、1704年の史料によりますと
968隻と千近い船を擁して水行勢力の面目を維持しておりました。
この船団の一部が明治に入って水産会社の雄、マルハを
生みだす母体となります。マルハの「ハ」は風土記の
時代以来、播磨灘随一の漁場を支配した港町、林崎(明石市)
の「ハ」なのだそうです。
神戸市垂水区、西区は、かつての明石郡の中枢をしめている。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/89/siru/history/history/01_hazi.html
神戸ワインとして知られるワインたちは、実は播州明石産なのである。
そして百数十年前、明石郡では明治政府の国家プロジェクトとして醸造用欧州系葡萄栽培とワイン造りが先進的に試みられていた。
プロジェクトは明治20年代に世界を襲ったフィロキセラ虫の大災害で壊滅したが日本の近代的なワイン造りはこの地で初めて大規模に試みられた。
http://www.paw.hi-ho.ne.jp/seisui/budoen.html
さかのぼって、たばこも、近代たばこ産業は明石の岩岡に始まる。
江戸時代、藩主松平直明によってはじめられた明石藩の専売事業
タバコ栽培は、近代に入ってアメリカから新品種(黄タバコ)と
新技術が導入され、専売公社に引き継がれた。
その巨大な工場跡地が現在のショッピングセンター
マイカル明石になっている。
http://freki.exblog.jp/7826630 明石 風土記
http://freki.exblog.jp/7695275 林
http://freki.exblog.jp/1794747 オシャタカ舟
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