戦国時代の西宮の殿様 三好氏
2009年5月3日 地歴
写真は戦国時代の西宮越水城主、三好氏の旗印 三階菱。
江戸時代の初期に松本城や明石城(喜春城)を築いた
小笠原氏の紋章であり、三菱財閥を創始した岩崎家の紋章でもある。
三好氏の家紋としては三階菱のほかに井桁紋や釘抜紋も使用される。
天文二年(1533) 九月 河原林というものが三好方の篠原衆を破り
越水城を占拠したが翌日には大坂の中島に撤退した「細川両家記」
「私心記」によると、河原林氏は、この時期(天文二年 八月)
細川氏の武将、薬師寺氏とともに中島で活動している
戦国時代の西宮には二つの勢力があった。
武庫川沿いの瓦林城を本拠とする国人領主、河原林氏と
阿波だけでなく摂津の守護代でもあった三好氏である。
両者は室町将軍家や管領細川家の内紛ともからんで
非常に複雑な抗争を繰り広げるが最終的には
三好元長が赤松氏、明石氏を味方につけて細川高国を滅ぼした
「大物(だいもつ)崩れ(1531)」で河原林氏も衰亡する。
その十年あまり後、元長の長男、三好長慶が
三好宗家の家督を継いだあと十代で曽祖父ゆかりの越水城に入り
ここを拠点として畿内統一をなしとげていく。
海上では三好の水軍は撫養(むや 鳴門)と淡路島を本拠地として
東瀬戸内の制海権をにぎり
堺の安全を保障して、その繁栄を軍事面でささえていた。
三好長慶は短い間ではあったが信長に先んじて最初の天下人にもなった。
長慶を「日本の副王」と呼んだ宣教師ガスパル・ヴィレラは
長慶の支持を得て京都で布教することができたのである。
最初の天下人、三好長慶は20代を越水(西宮)で過ごした。
「はるばるとおまへの沖を見わたせば雲ゐにまがふあまのつり舟」
という歌で有名な、その場所は現在、大阪平野を
一望のもとにおさめる高級住宅地である。
将来を嘱望されていた長慶の跡継ぎ(義興)も越水城で産まれ育った。
その後、義興は高槻芥川山城(三好山)の城主になるが
二十歳そこそこで急死する。
優秀な兄弟を短期間に次々と亡くして気落ちしていた長慶は
息子の死で心を病み河内飯盛山城で四十過ぎで没する。
相次いだ三好家重鎮の死には松永弾正久秀による謀略が古くから疑われている。
長慶の法名は「聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門」
京都、紫野大徳寺の聚光院は彼の菩提を弔うべく創建されたものである。
聚光院は千利休から始まる京都 三千家の菩提寺でもある。
高槻には「三好芥川城の会」があり
上方筋に覇をとなえた郷土の英雄として三好長慶を顕彰していますが
西宮市民は長慶を忘れはてていますねえ。
長慶は武人として優秀だったが、宴(歌)と茶を愛した文人でもありました。
越水城でも宴は多くおこなわれたでありましょう。
後世、西宮が大酒造地になるのも長慶のおかげかもしれませぬ。
長慶には華麗な辻が花のような着物を着た肖像画が残っている。
長慶の父、元長は無礼講で庶民を城に招きいれ
ドンチャン騒ぎをするのが好きな人だったという。阿波踊りの起源だろうか。
長慶は元長とは違い静かなひとだったようである。
千利休とも幼少のころから交友があったともいわれる。
長慶の妹が利休の正室(宝心妙樹)である。
活動的だったといわれる利休の娘たちは「ちょう」を除いて長慶の血縁(姪)にあたる。
「りょう」「きぬ」「ぎん」「さだ」という名前がみえる。
この頃、越水城から南へ、かつては入り江であった
湿地帯を横切って札場筋がつくられ
西宮戎の門前町は近畿地方最大の戦国大名の外港となった。
後に城が取り壊されたあとの江戸時代にも西宮の商業都市としての繁栄は続き
尼崎藩の経済を支えていた。
三好氏は小笠原氏の同族とされる。
徳島県三好郡、美馬郡からはじまって東瀬戸内と近畿地方西部の大半を制した。
淡路島の安宅、讃岐の十河(そごう)とも同族関係にある。
淡路の水軍を指揮していたのが長慶の実弟、安宅冬康である。
明石大橋ができる前、西宮と淡路島の間にはフェリーが就航していた。
淡路・阿波の人形浄瑠璃と西宮のつながりも三好つながりがあるかもしれない。
戦国期には浄瑠璃の源流となった西宮の戎舁(えびすかき)が盛んになり
京都御所でも上演されたようである。西宮戎には傀儡師、百太夫を祭る摂社がある。
天井川(仁川)の川底(百間)を底樋(そこひ)でくぐる
百間樋用水ができ、西宮の農業生産が飛躍したのもこの時期である。
http://filologos.diarynote.jp/200908070719547279 三好長慶と西宮
http://filologos.diarynote.jp/200812210614454802 西宮史
http://filologos.diarynote.jp/200906230044544316 利休の娘と三好長慶
http://filologos.diarynote.jp/200508191801530000 明石史
江戸時代の初期に松本城や明石城(喜春城)を築いた
小笠原氏の紋章であり、三菱財閥を創始した岩崎家の紋章でもある。
三好氏の家紋としては三階菱のほかに井桁紋や釘抜紋も使用される。
天文二年(1533) 九月 河原林というものが三好方の篠原衆を破り
越水城を占拠したが翌日には大坂の中島に撤退した「細川両家記」
「私心記」によると、河原林氏は、この時期(天文二年 八月)
細川氏の武将、薬師寺氏とともに中島で活動している
戦国時代の西宮には二つの勢力があった。
武庫川沿いの瓦林城を本拠とする国人領主、河原林氏と
阿波だけでなく摂津の守護代でもあった三好氏である。
両者は室町将軍家や管領細川家の内紛ともからんで
非常に複雑な抗争を繰り広げるが最終的には
三好元長が赤松氏、明石氏を味方につけて細川高国を滅ぼした
「大物(だいもつ)崩れ(1531)」で河原林氏も衰亡する。
その十年あまり後、元長の長男、三好長慶が
三好宗家の家督を継いだあと十代で曽祖父ゆかりの越水城に入り
ここを拠点として畿内統一をなしとげていく。
海上では三好の水軍は撫養(むや 鳴門)と淡路島を本拠地として
東瀬戸内の制海権をにぎり
堺の安全を保障して、その繁栄を軍事面でささえていた。
三好長慶は短い間ではあったが信長に先んじて最初の天下人にもなった。
長慶を「日本の副王」と呼んだ宣教師ガスパル・ヴィレラは
長慶の支持を得て京都で布教することができたのである。
最初の天下人、三好長慶は20代を越水(西宮)で過ごした。
「はるばるとおまへの沖を見わたせば雲ゐにまがふあまのつり舟」
という歌で有名な、その場所は現在、大阪平野を
一望のもとにおさめる高級住宅地である。
将来を嘱望されていた長慶の跡継ぎ(義興)も越水城で産まれ育った。
その後、義興は高槻芥川山城(三好山)の城主になるが
二十歳そこそこで急死する。
優秀な兄弟を短期間に次々と亡くして気落ちしていた長慶は
息子の死で心を病み河内飯盛山城で四十過ぎで没する。
相次いだ三好家重鎮の死には松永弾正久秀による謀略が古くから疑われている。
長慶の法名は「聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門」
京都、紫野大徳寺の聚光院は彼の菩提を弔うべく創建されたものである。
聚光院は千利休から始まる京都 三千家の菩提寺でもある。
高槻には「三好芥川城の会」があり
上方筋に覇をとなえた郷土の英雄として三好長慶を顕彰していますが
西宮市民は長慶を忘れはてていますねえ。
長慶は武人として優秀だったが、宴(歌)と茶を愛した文人でもありました。
越水城でも宴は多くおこなわれたでありましょう。
後世、西宮が大酒造地になるのも長慶のおかげかもしれませぬ。
長慶には華麗な辻が花のような着物を着た肖像画が残っている。
長慶の父、元長は無礼講で庶民を城に招きいれ
ドンチャン騒ぎをするのが好きな人だったという。阿波踊りの起源だろうか。
長慶は元長とは違い静かなひとだったようである。
千利休とも幼少のころから交友があったともいわれる。
長慶の妹が利休の正室(宝心妙樹)である。
活動的だったといわれる利休の娘たちは「ちょう」を除いて長慶の血縁(姪)にあたる。
「りょう」「きぬ」「ぎん」「さだ」という名前がみえる。
この頃、越水城から南へ、かつては入り江であった
湿地帯を横切って札場筋がつくられ
西宮戎の門前町は近畿地方最大の戦国大名の外港となった。
後に城が取り壊されたあとの江戸時代にも西宮の商業都市としての繁栄は続き
尼崎藩の経済を支えていた。
三好氏は小笠原氏の同族とされる。
徳島県三好郡、美馬郡からはじまって東瀬戸内と近畿地方西部の大半を制した。
淡路島の安宅、讃岐の十河(そごう)とも同族関係にある。
淡路の水軍を指揮していたのが長慶の実弟、安宅冬康である。
明石大橋ができる前、西宮と淡路島の間にはフェリーが就航していた。
淡路・阿波の人形浄瑠璃と西宮のつながりも三好つながりがあるかもしれない。
戦国期には浄瑠璃の源流となった西宮の戎舁(えびすかき)が盛んになり
京都御所でも上演されたようである。西宮戎には傀儡師、百太夫を祭る摂社がある。
天井川(仁川)の川底(百間)を底樋(そこひ)でくぐる
百間樋用水ができ、西宮の農業生産が飛躍したのもこの時期である。
http://filologos.diarynote.jp/200908070719547279 三好長慶と西宮
http://filologos.diarynote.jp/200812210614454802 西宮史
http://filologos.diarynote.jp/200906230044544316 利休の娘と三好長慶
http://filologos.diarynote.jp/200508191801530000 明石史
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