狭き海有り 広き海有り 近き道有り
陸立ちの所も有り
畢竟その場の能らん所を見たて
兵船を遣すべし
瀬戸内村上水軍の総帥、村上武吉が書いた?という
「軍船巻第一」にある言葉だそうですが
これは李舜臣のためにある言葉のように見えます。
一瞬の戦機を捉える司令官の才能は
日本海海戦やミッドウェー海戦を見ても
海戦の勝敗を左右する重要な要素です。
そして重要な海戦の帰趨は戦争全体をも左右しています。
天下統一戦における織田信長にしても
第一次大阪湾海戦で惨敗したあと
すみやかに水軍を再建して大阪湾の制海権をにぎり
大阪を降伏させたとき天下人になったというべきです。
私は地元兵庫県の丹波黒井城攻防戦で歴史に登場し
淡路國の大名であったときに
東瀬戸内の水軍を率いて李舜臣と戦った脇坂安治を家祖とし
江戸時代の大部分は龍野の殿様だった
脇坂家をしらべていて李舜臣にいきつきました。
龍野、淡路島、丹波黒井は、いづれも兵庫県に属します。
洲本城主としての安治のもとでは
由良、鳴門(撫養)、岩屋(菅)、塩飽、笠岡(真鍋水軍)などの
瀬戸内海東部の海賊衆が戦ったようですが
海賊衆の人数は洲本藩の動員兵力の
なかには含まれていないようです。
万戸制をしいて水軍をささえた朝鮮半島とは異なり
日本の場合、石高で水軍(海賊)の実力を測ることはできません。
文禄・慶長の海戦は日本側の記録が乏しく
詳細は「乱中日記」など李舜臣が残した記録に大きく依存しています。
我々は李舜臣の目を通して海戦の数々をながめているといえます。
それゆえ、このあたりは注意して読まねばなりません。
李舜臣は戦果をひかえめに報告したことも多いようですが
それでも「戦果を過大に報告し朝廷を欺いた罪」に問われた
のですから。
脇坂家の初代、安治の言葉として流布している
次の言葉も原文は韓国語であろうと思われます。
いわゆる「脇坂記」のなかに、これに相当するものが
あるのかどうか、今のところ不明です。
私がいちばん恐れる人は李舜臣であり、
最も憎い人も李舜臣であり、
最も好む人も李舜臣であり、
最も欽慕して崇めたてる人も李舜臣であり、
最も殺したい人もやはり李舜臣であり、
最も茶を一緒に飲みたいのもまさに李舜臣だ
愛憎ここに極まるという感じがしますねえ。
江戸時代には老中を出す家として脇坂家は有名だったかもしれませんが
今では兵庫県でも龍野に行かないと知名度はあまりありますまい。
おそらく脇坂安治(와키자카 야스하루)は李舜臣の天敵として
日本より韓国のほうで有名なのではないでしょうか。
http://www.epcott.co.jp/isunsin/cast.html
このドラマで李舜臣の相手をする艦隊は
輪違い紋(脇坂家の家紋)をかかげていることが
圧倒的に多いのですが
このあたりはどうも日本人の持つイメージとかなり違います。
安治は賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる勇将であるとともに
文武両道に秀でていた点で李舜臣に通ずるものがありますが
日本では水軍の将としての知名度は
九鬼嘉隆のほうがはるかに高いですね。
余談ながら九鬼家は兵庫県三田の殿様として
江戸時代を過ごしました。
三田藩は明治時代の神戸の近代化に
大きく貢献しています。
話は16世紀に戻ります。
晩年の秀吉はいただけませんねえ。
天下惣無事(日本に平和をもららす)を唱えながら
大戦争を起こしたのですから。
朝鮮出兵は督戦の奉行として渡海した石田三成と
多大な人的被害を出しながら督戦される
諸将との関係を険悪なものとし
関が原の西軍惨敗の伏線となります。
水軍を率いた大名たち(藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明)が
家康に好意をよせ始めるのも、この時期です。
秀吉は、よくよく水軍を軽視し、水軍に嫌われた人でありました。
戦国時代、瀬戸内最強の水軍を率いた村上武吉の秀吉嫌いは相当のものでした。
武吉は秀吉によって瀬戸内海から追放され、秀吉の死後
瀬戸内に戻ってきます。
大阪の陣で大阪城はあっけなく落城し豊臣家は滅亡しました。
戦国時代の石山合戦で大阪が十年にわたる包囲に耐えたのは
大阪湾の制海権を維持し、水軍による補給があったからです。
藤堂、脇坂、加藤の諸大名は関が原の時点で家康支持でしたし
大阪の陣で豊臣を支持した水軍は皆無でありました。
脇坂安治のみが豊臣に弓をひくことができず大名をやめて
京都で隠居しますが脇坂家は大名として存続します。
全羅道を根拠地とした李舜臣は
百済や清海鎮、三別抄など
水軍の長い伝統を持つ地域をよく生かして
戦いを挑んだように見受けられます。
ひるがえって秀吉は海賊禁止令によって
九鬼水軍を弱体化させ
日本最強といわれた村上水軍を解体した上に
小早川隆景や村上武吉のような
海戦には百戦錬磨の武将たちに
水軍を指揮させることをしなかった。
飛車角落ちで名人に挑んだようなものです。
http://filologos.diarynote.jp/200811241000128824 清海鎮
http://filologos.diarynote.jp/200803110850520000 瀬戸内水軍
写真は韓国のテレビドラマに登場した脇坂水軍 (見乃梁)
陸立ちの所も有り
畢竟その場の能らん所を見たて
兵船を遣すべし
瀬戸内村上水軍の総帥、村上武吉が書いた?という
「軍船巻第一」にある言葉だそうですが
これは李舜臣のためにある言葉のように見えます。
一瞬の戦機を捉える司令官の才能は
日本海海戦やミッドウェー海戦を見ても
海戦の勝敗を左右する重要な要素です。
そして重要な海戦の帰趨は戦争全体をも左右しています。
天下統一戦における織田信長にしても
第一次大阪湾海戦で惨敗したあと
すみやかに水軍を再建して大阪湾の制海権をにぎり
大阪を降伏させたとき天下人になったというべきです。
私は地元兵庫県の丹波黒井城攻防戦で歴史に登場し
淡路國の大名であったときに
東瀬戸内の水軍を率いて李舜臣と戦った脇坂安治を家祖とし
江戸時代の大部分は龍野の殿様だった
脇坂家をしらべていて李舜臣にいきつきました。
龍野、淡路島、丹波黒井は、いづれも兵庫県に属します。
洲本城主としての安治のもとでは
由良、鳴門(撫養)、岩屋(菅)、塩飽、笠岡(真鍋水軍)などの
瀬戸内海東部の海賊衆が戦ったようですが
海賊衆の人数は洲本藩の動員兵力の
なかには含まれていないようです。
万戸制をしいて水軍をささえた朝鮮半島とは異なり
日本の場合、石高で水軍(海賊)の実力を測ることはできません。
文禄・慶長の海戦は日本側の記録が乏しく
詳細は「乱中日記」など李舜臣が残した記録に大きく依存しています。
我々は李舜臣の目を通して海戦の数々をながめているといえます。
それゆえ、このあたりは注意して読まねばなりません。
李舜臣は戦果をひかえめに報告したことも多いようですが
それでも「戦果を過大に報告し朝廷を欺いた罪」に問われた
のですから。
脇坂家の初代、安治の言葉として流布している
次の言葉も原文は韓国語であろうと思われます。
いわゆる「脇坂記」のなかに、これに相当するものが
あるのかどうか、今のところ不明です。
私がいちばん恐れる人は李舜臣であり、
最も憎い人も李舜臣であり、
最も好む人も李舜臣であり、
最も欽慕して崇めたてる人も李舜臣であり、
最も殺したい人もやはり李舜臣であり、
最も茶を一緒に飲みたいのもまさに李舜臣だ
愛憎ここに極まるという感じがしますねえ。
江戸時代には老中を出す家として脇坂家は有名だったかもしれませんが
今では兵庫県でも龍野に行かないと知名度はあまりありますまい。
おそらく脇坂安治(와키자카 야스하루)は李舜臣の天敵として
日本より韓国のほうで有名なのではないでしょうか。
http://www.epcott.co.jp/isunsin/cast.html
このドラマで李舜臣の相手をする艦隊は
輪違い紋(脇坂家の家紋)をかかげていることが
圧倒的に多いのですが
このあたりはどうも日本人の持つイメージとかなり違います。
安治は賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる勇将であるとともに
文武両道に秀でていた点で李舜臣に通ずるものがありますが
日本では水軍の将としての知名度は
九鬼嘉隆のほうがはるかに高いですね。
余談ながら九鬼家は兵庫県三田の殿様として
江戸時代を過ごしました。
三田藩は明治時代の神戸の近代化に
大きく貢献しています。
話は16世紀に戻ります。
晩年の秀吉はいただけませんねえ。
天下惣無事(日本に平和をもららす)を唱えながら
大戦争を起こしたのですから。
朝鮮出兵は督戦の奉行として渡海した石田三成と
多大な人的被害を出しながら督戦される
諸将との関係を険悪なものとし
関が原の西軍惨敗の伏線となります。
水軍を率いた大名たち(藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明)が
家康に好意をよせ始めるのも、この時期です。
秀吉は、よくよく水軍を軽視し、水軍に嫌われた人でありました。
戦国時代、瀬戸内最強の水軍を率いた村上武吉の秀吉嫌いは相当のものでした。
武吉は秀吉によって瀬戸内海から追放され、秀吉の死後
瀬戸内に戻ってきます。
大阪の陣で大阪城はあっけなく落城し豊臣家は滅亡しました。
戦国時代の石山合戦で大阪が十年にわたる包囲に耐えたのは
大阪湾の制海権を維持し、水軍による補給があったからです。
藤堂、脇坂、加藤の諸大名は関が原の時点で家康支持でしたし
大阪の陣で豊臣を支持した水軍は皆無でありました。
脇坂安治のみが豊臣に弓をひくことができず大名をやめて
京都で隠居しますが脇坂家は大名として存続します。
全羅道を根拠地とした李舜臣は
百済や清海鎮、三別抄など
水軍の長い伝統を持つ地域をよく生かして
戦いを挑んだように見受けられます。
ひるがえって秀吉は海賊禁止令によって
九鬼水軍を弱体化させ
日本最強といわれた村上水軍を解体した上に
小早川隆景や村上武吉のような
海戦には百戦錬磨の武将たちに
水軍を指揮させることをしなかった。
飛車角落ちで名人に挑んだようなものです。
http://filologos.diarynote.jp/200811241000128824 清海鎮
http://filologos.diarynote.jp/200803110850520000 瀬戸内水軍
写真は韓国のテレビドラマに登場した脇坂水軍 (見乃梁)
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