越水城の主として西宮の殿様でもあった、三好長慶は、1522年生まれ。
信長より一回り上。11才にして三好宗家の当主となる。
12才のとき石山本願寺の法主、証如光教(当時18)と面談して気脈を通じた。
これ以来、三好長慶は浄土、法華、禅宗、キリスト教のすべてと友好関係を保った。
このあたりはナントの勅令を発布したブルボン王朝の創始者アンリ4世にも似る。
(余談だが西宮市はアンリ4世の故郷であるフランス南西部の県と姉妹提携をしている。)
http://filologos.diarynote.jp/200803181602370000/
長慶は堺に禅宗の大寺をつくり、京都の墓は禅宗の大徳寺なので
個人的には禅宗を好んでいたようにも見える。
大徳寺は後醍醐天皇の庇護を受けたため足利氏には嫌われた。
三好氏は足利氏と仲が悪かった大徳寺と親しかったのである。
西宮から神戸にかけての戦国地図では
国人領主と自治組織の対立において
自治側が勝利をおさめる。
武庫川沿いに本拠をおき
築城にもすぐれていた国人領主 河原林氏と
東灘に強大な勢力を築き
一万人に近い動員兵力を誇った自治組織(本庄惣庄)
の対立があり 三好氏が惣庄側につく構図になる。
三好氏の自治に対する姿勢は
信長が一揆を徹底して殲滅(根切り)したのに比べると
支配というより連携と言ってもよいほどのおだやかさである。
三好氏には長慶の曽祖父、之長以来、一揆側と気脈を通じる気風が多分にある。
長慶は天文8(1539)年、正式に室町幕府から摂津国の大名として認められる。
このころの摂津は高槻を中心とする上郡(かみごおり)、兵庫県東部の
下郡(しもごおり)、現在の大阪市を中心とする欠郡(かけごおり)に
分かれていた。 その意味では摂津西半国の大名になったというほうが正しい。
このとき彼は、まだ、十代後半である。
ここに長慶は本国阿波と隣国(讃岐と淡路)に加えて現在の阪神間をその版図に加え
畿内布武(上方の覇者)に向けてスタートをきったのである。
三好氏の城下町として西宮は繁栄し、その繁栄は現在にも続いている。
それはあたかも三好信吉(豊臣秀次)の城下町であった近江八幡が
城下町でなくなったあとも繁栄を続けた歴史に
及ばずながら似ているところでもある。
信長以前に最も天下に近づいた三好氏のスローガンは
「理世安民(よのなかを ととのえて たみを やすんずる)」。
軍事的な信長の「天下布武」、家康の「厭離穢土 欣求浄土」の宗教性と比べると
その政治的な雰囲気が際立つ。
三好氏の紋章、三階菱は小笠原氏の紋章といわれるが
もともとは、加賀美遠光にはじまる加賀美氏の紋章であり、
「王」の字が含まれているといわれる。
紋章は古墳時代以来の豪族の住まいである高殿(たかどの)を
象っているようにも見える。
堺に幕府を成立させた三好元長は高殿を好んだそうな。
戦国末期にはなひらく城郭建築、天守閣は高殿を祖形としていると思われる。
小笠原氏に関係する城郭に松本城、明石城、小倉城がある。
そして現在の東京にある小笠原伯爵邸はスペイン・イスラム風の建築。
小笠原流の好みは礼法だけでなく建築にもあるかもしれませぬ。
加賀美遠光は清和源氏の大きな流れをなしている
新羅三郎の系統である。(もうひとつの流れは八幡太郎の子孫)
遠光のの子供たちは、末子相続をとり
四郎が加賀美氏を継ぐ一方で、兄たちからは
小笠原二郎(長清)、南部三郎と大名を輩出した。
小笠原氏は信濃と阿波の守護大名となり
長房にはじまる阿波小笠原氏は美馬郡、三好郡を
本拠として鎌倉時代の阿波国に君臨した。
南北朝の動乱期には信濃の小笠原宗家が北朝を支持したのに対し
阿波の小笠原氏は常に武家方というわけではなかった。
特に沼島(ぬしま)の小笠原氏は新居大島の村上水軍や忽那諸島の勢力と
ともに懐良親王を九州に運び、南朝方の征西府成立に大きく貢献している。
室町幕府の阿波守護として進出した細川氏と小笠原氏の関係は複雑である。
阿波小笠原氏の直系ではないとはいえ、小笠原氏の勢力の後継者である
三好氏が細川氏と何度も手を結びながらも結局は複雑に対立してしまうのも
南北朝以来の、かなり根の深い対立関係が背景になっている。
美馬郡、三好郡が古墳時代の粟(あわ)国造の本拠地であったことから
小笠原氏や三好氏はこの勢力をも承継し、外来の細川氏と対立した
との異説もある。
南北朝合体のあと小笠原氏の勢力を継いで阿波の実権を掌握する三好氏は
三好長慶の曽祖父、之長の時代に京都の政界に登場し、
父、元長は堺幕府の屋台骨をささえ、ついには長慶に至って
畿内と東瀬戸内を支配する上方の覇者に成長する。
http://filologos.diarynote.jp/200908110031455127 三好氏の長い春
http://filologos.diarynote.jp/200905032245131690 戦国時代の西宮
http://filologos.diarynote.jp/200906230044544316 利休の娘と三好長慶
http://filologos.diarynote.jp/200812210614454802 西宮史
信長より一回り上。11才にして三好宗家の当主となる。
12才のとき石山本願寺の法主、証如光教(当時18)と面談して気脈を通じた。
これ以来、三好長慶は浄土、法華、禅宗、キリスト教のすべてと友好関係を保った。
このあたりはナントの勅令を発布したブルボン王朝の創始者アンリ4世にも似る。
(余談だが西宮市はアンリ4世の故郷であるフランス南西部の県と姉妹提携をしている。)
http://filologos.diarynote.jp/200803181602370000/
長慶は堺に禅宗の大寺をつくり、京都の墓は禅宗の大徳寺なので
個人的には禅宗を好んでいたようにも見える。
大徳寺は後醍醐天皇の庇護を受けたため足利氏には嫌われた。
三好氏は足利氏と仲が悪かった大徳寺と親しかったのである。
西宮から神戸にかけての戦国地図では
国人領主と自治組織の対立において
自治側が勝利をおさめる。
武庫川沿いに本拠をおき
築城にもすぐれていた国人領主 河原林氏と
東灘に強大な勢力を築き
一万人に近い動員兵力を誇った自治組織(本庄惣庄)
の対立があり 三好氏が惣庄側につく構図になる。
三好氏の自治に対する姿勢は
信長が一揆を徹底して殲滅(根切り)したのに比べると
支配というより連携と言ってもよいほどのおだやかさである。
三好氏には長慶の曽祖父、之長以来、一揆側と気脈を通じる気風が多分にある。
長慶は天文8(1539)年、正式に室町幕府から摂津国の大名として認められる。
このころの摂津は高槻を中心とする上郡(かみごおり)、兵庫県東部の
下郡(しもごおり)、現在の大阪市を中心とする欠郡(かけごおり)に
分かれていた。 その意味では摂津西半国の大名になったというほうが正しい。
このとき彼は、まだ、十代後半である。
ここに長慶は本国阿波と隣国(讃岐と淡路)に加えて現在の阪神間をその版図に加え
畿内布武(上方の覇者)に向けてスタートをきったのである。
三好氏の城下町として西宮は繁栄し、その繁栄は現在にも続いている。
それはあたかも三好信吉(豊臣秀次)の城下町であった近江八幡が
城下町でなくなったあとも繁栄を続けた歴史に
及ばずながら似ているところでもある。
信長以前に最も天下に近づいた三好氏のスローガンは
「理世安民(よのなかを ととのえて たみを やすんずる)」。
軍事的な信長の「天下布武」、家康の「厭離穢土 欣求浄土」の宗教性と比べると
その政治的な雰囲気が際立つ。
三好氏の紋章、三階菱は小笠原氏の紋章といわれるが
もともとは、加賀美遠光にはじまる加賀美氏の紋章であり、
「王」の字が含まれているといわれる。
紋章は古墳時代以来の豪族の住まいである高殿(たかどの)を
象っているようにも見える。
堺に幕府を成立させた三好元長は高殿を好んだそうな。
戦国末期にはなひらく城郭建築、天守閣は高殿を祖形としていると思われる。
小笠原氏に関係する城郭に松本城、明石城、小倉城がある。
そして現在の東京にある小笠原伯爵邸はスペイン・イスラム風の建築。
小笠原流の好みは礼法だけでなく建築にもあるかもしれませぬ。
加賀美遠光は清和源氏の大きな流れをなしている
新羅三郎の系統である。(もうひとつの流れは八幡太郎の子孫)
遠光のの子供たちは、末子相続をとり
四郎が加賀美氏を継ぐ一方で、兄たちからは
小笠原二郎(長清)、南部三郎と大名を輩出した。
小笠原氏は信濃と阿波の守護大名となり
長房にはじまる阿波小笠原氏は美馬郡、三好郡を
本拠として鎌倉時代の阿波国に君臨した。
南北朝の動乱期には信濃の小笠原宗家が北朝を支持したのに対し
阿波の小笠原氏は常に武家方というわけではなかった。
特に沼島(ぬしま)の小笠原氏は新居大島の村上水軍や忽那諸島の勢力と
ともに懐良親王を九州に運び、南朝方の征西府成立に大きく貢献している。
室町幕府の阿波守護として進出した細川氏と小笠原氏の関係は複雑である。
阿波小笠原氏の直系ではないとはいえ、小笠原氏の勢力の後継者である
三好氏が細川氏と何度も手を結びながらも結局は複雑に対立してしまうのも
南北朝以来の、かなり根の深い対立関係が背景になっている。
美馬郡、三好郡が古墳時代の粟(あわ)国造の本拠地であったことから
小笠原氏や三好氏はこの勢力をも承継し、外来の細川氏と対立した
との異説もある。
南北朝合体のあと小笠原氏の勢力を継いで阿波の実権を掌握する三好氏は
三好長慶の曽祖父、之長の時代に京都の政界に登場し、
父、元長は堺幕府の屋台骨をささえ、ついには長慶に至って
畿内と東瀬戸内を支配する上方の覇者に成長する。
http://filologos.diarynote.jp/200908110031455127 三好氏の長い春
http://filologos.diarynote.jp/200905032245131690 戦国時代の西宮
http://filologos.diarynote.jp/200906230044544316 利休の娘と三好長慶
http://filologos.diarynote.jp/200812210614454802 西宮史
コメント