visual ping
2018年1月28日 サービス体験更新の自動通知がないページをフォローできるとのこと
iframeで取り込んであるページをすべて記録??
まだ、よくわからない。 説明は英語
https://visualping.io/faq (英文)
サイトの更新を定期的にチェックし、chromeの拡張機能として動く
ページのスナップショットを撮ってピクセル単位で比較するか
HTMLを比較するかを選ぶことができるようだ
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まだ、よくわからない。 説明は英語
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倭人伝 卑彌弓呼(素)と古事記 比売許曽
2018年1月22日 歴史物卑弥呼の邪馬台国と戦った狗奴国は魏志倭人伝の原文で、倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、と出てきて、その王の名は「卑彌弓呼」説と「卑彌弓呼素」説がある。
倭人伝の読み方の多数説では「素不和」を、「素より不和」と読むので人名の一部にはならない。ここでは、人名に含める内藤湖南説が前提。
私が気になったのは「いごっそう」という言葉と「卑彌弓呼素」が、ikosso とpim ikkoso で、かなり近いこと。音素として母音にはさまれた子音は濁って発音される音韻則もある。「もっこす」の語尾も「こそ」の変形と見ることもできる。
「卑彌弓呼素」と「比売許曽」は音が非常に共通するが、狗奴王は倭人伝に男と明記されている。比売許曽は古事記にアカルヒメの別名とあって女性。 「こそ」は名前の一部として、男にも女にも使えるらしい。そこで「御前」の字をあててみた。
比売許曽は、姫御前になって、ぴったり。狗奴王はピーミック御前にしときましょうか。
追記
卑彌弓呼素の「弓呼素」は、「国主」でもいいかもしれない。卑彌がピンからキリまでの「ピン」だとすると、第一国主。大国主?
倭人伝の読み方の多数説では「素不和」を、「素より不和」と読むので人名の一部にはならない。ここでは、人名に含める内藤湖南説が前提。
私が気になったのは「いごっそう」という言葉と「卑彌弓呼素」が、ikosso とpim ikkoso で、かなり近いこと。音素として母音にはさまれた子音は濁って発音される音韻則もある。「もっこす」の語尾も「こそ」の変形と見ることもできる。
「卑彌弓呼素」と「比売許曽」は音が非常に共通するが、狗奴王は倭人伝に男と明記されている。比売許曽は古事記にアカルヒメの別名とあって女性。 「こそ」は名前の一部として、男にも女にも使えるらしい。そこで「御前」の字をあててみた。
比売許曽は、姫御前になって、ぴったり。狗奴王はピーミック御前にしときましょうか。
追記
卑彌弓呼素の「弓呼素」は、「国主」でもいいかもしれない。卑彌がピンからキリまでの「ピン」だとすると、第一国主。大国主?
今はなき Mixi page
2018年1月17日 サイト構成Mixiページは、いつのまにかアメーバ並みのサービスになっていたようです。
まだ、やり始めたばかりで、よいところも悪いところも、あまりわかっていませんが、ぼつぼつ体験していきたいと思っています。
言語系のかなりマニアックなページになります
2021.07 追記
今ではミクシィによる このページサービス自体が消滅しています
page.mixi.jp view_page.pl?page_id=324108
まだ、やり始めたばかりで、よいところも悪いところも、あまりわかっていませんが、ぼつぼつ体験していきたいと思っています。
言語系のかなりマニアックなページになります
2021.07 追記
今ではミクシィによる このページサービス自体が消滅しています
page.mixi.jp view_page.pl?page_id=324108
日本で最初に流行ったSNS ミクシィ
早期に多国語対応を進めていれば、タイやインドネシアで、ある程度のシェアをとれてたかもしれません。
ミクシィ自体は、スマホ向けのゲームがヒットして経営基盤は磐石のようですが、SNSとして脱皮できるのかどうかは、これからです。
久しぶりに見たら twitterのような雰囲気を出していこうとしているようでもあります。
コミュはfacebook page を目指しているのでしょうか。google検索の対象にもなるようです。
ということで、言語系のコミュを仕立ててみました。
今のところ、タイ語・梵語についての一文のみ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4551811
.plの拡張子がついているということは、使用言語はPerlですかね。
この点でも、時代を感じます。
しかし、このコンピュータ言語が生きて動いているというのなら、それはそれで、うれしい限り
ここまでやって気がついたこと...
facebook page に相当するのはmixiページで、コミュではなかった
http://page.mixi.jp/
コミュは趣味のページで、色々と使用制限があるみたい
早期に多国語対応を進めていれば、タイやインドネシアで、ある程度のシェアをとれてたかもしれません。
ミクシィ自体は、スマホ向けのゲームがヒットして経営基盤は磐石のようですが、SNSとして脱皮できるのかどうかは、これからです。
久しぶりに見たら twitterのような雰囲気を出していこうとしているようでもあります。
コミュはfacebook page を目指しているのでしょうか。google検索の対象にもなるようです。
ということで、言語系のコミュを仕立ててみました。
今のところ、タイ語・梵語についての一文のみ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4551811
.plの拡張子がついているということは、使用言語はPerlですかね。
この点でも、時代を感じます。
しかし、このコンピュータ言語が生きて動いているというのなら、それはそれで、うれしい限り
ここまでやって気がついたこと...
facebook page に相当するのはmixiページで、コミュではなかった
http://page.mixi.jp/
コミュは趣味のページで、色々と使用制限があるみたい
4世紀というと「謎の4世紀」といわれ、卑弥呼と倭五王の時代にはさまれて史料の少ない時代。
この時代の伊賀に1991年8月8日の中日新聞が「日本最古の庭園発見」と報じた庭があった。
池泉回遊式といわれる日本庭園の原点ともいうべき庭が、その時代としては最大級の建物跡とともに出土した。
古墳時代の初期にあって伊賀が先進地帯であったことを示唆する。
http://inoues.net/ruins2/jyonokosi.html
この時代の伊賀に1991年8月8日の中日新聞が「日本最古の庭園発見」と報じた庭があった。
池泉回遊式といわれる日本庭園の原点ともいうべき庭が、その時代としては最大級の建物跡とともに出土した。
古墳時代の初期にあって伊賀が先進地帯であったことを示唆する。
http://inoues.net/ruins2/jyonokosi.html
船上城跡に家から歩いて行った。16世紀(1585)に摂津高槻から国替えで明石の大名となった高山右近が、明石川を数キロさかのぼったところ(枝吉 えだよし)にあった城下町を海沿いに移したときのものです。城下に配置されたいくつかの寺や町割りは残っていますが、城の遺構は何も残っていません。ここにありましたという案内板があるばかり。
地味な下町だと思っていた「蔵前」が、“東京のブルックリン”と呼ばれるオシャレ街になっていたという記事 日刊SPA 2016.03.09
https://backpackersjapan.co.jp/nuihostel/
https://backpackersjapan.co.jp/nuihostel/
これは、たぶん20年ぐらい前の新聞記事のタイトルで、炒飯の作り方を説明している。
鹹魚 ハムユイ、曹白魚 ツァオパイユイ というような読み方がおもしろく切り抜いてあった。
これは、日本で言えば「くさや」のようなものだろうか。
それとは別に、今、読み返してみると炒飯の作り方として参考になる。
----------
炒飯はどちらかというとコメ文化圏である華南の料理である。
(省略)
炒飯は最初に卵を入れ、最後までよお~く炒めること、これに尽きるのである。
基本の「卵炒飯」を例にとれば、まず鍋を煙が出るまでから焼きして、
そこへたっぷりの油を入れて全体に馴染ませて空ける。
この油はならし油であり、炒め油ではない。
次いで改めて大さじ二、三杯の油を入れる。これが炒め油になる。
そこへ割りほぐした卵二個から三個を入れ、お玉で大きく混ぜる。
そこへご飯四杯を入れ、よく炒めてパラパラにほぐす。
この時、卵が吸い込んだ油がご飯にいきわたるようによく炒める。
炒め方が足りないと油が浮いてしまう。
もしご飯が「だま」になっているようだったら酒を振り掛けると不思議とほぐれる。
十分に炒めたら長ネギのみじん切りをたっぷり加えて、
ここでもう一度余分な油を吸わせてしまう。
最後に塩と、それから隠し味に鍋肌から醤油をほんの少し回し入れて炒め、
醤油の香ばしさを出す。これでおいしい炒飯が出来る。
しかし炒飯の本場広東では砂糖を使い、さらにはもう一つ隠し味が入る。
鹹魚(ハムユイ 広東語)といってヽ主に曹白魚(ツァオパイユイ)を
塩漬けにして乾燥させたもので、香りは強いがなんともいえない風味がある。
鹹魚は広州や香港の市場ならどこにでもある。市場には鹹魚の専門店もある。
広東人にはそのくらい親しまれている味なのである。
広束で遊んだら絶対に広東名物の炒飯を食べること、
そして市場で忘れずに鹹魚を買うこと。切り身もあるから荷物にならない。
その時使い方を聞いてメモしておくことも大切。
砂糖と鹹魚で炒飯への想いが変わる。是非お試しを
小菅桂子(食文化研究家)
鹹魚 ハムユイ、曹白魚 ツァオパイユイ というような読み方がおもしろく切り抜いてあった。
これは、日本で言えば「くさや」のようなものだろうか。
それとは別に、今、読み返してみると炒飯の作り方として参考になる。
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炒飯はどちらかというとコメ文化圏である華南の料理である。
(省略)
炒飯は最初に卵を入れ、最後までよお~く炒めること、これに尽きるのである。
基本の「卵炒飯」を例にとれば、まず鍋を煙が出るまでから焼きして、
そこへたっぷりの油を入れて全体に馴染ませて空ける。
この油はならし油であり、炒め油ではない。
次いで改めて大さじ二、三杯の油を入れる。これが炒め油になる。
そこへ割りほぐした卵二個から三個を入れ、お玉で大きく混ぜる。
そこへご飯四杯を入れ、よく炒めてパラパラにほぐす。
この時、卵が吸い込んだ油がご飯にいきわたるようによく炒める。
炒め方が足りないと油が浮いてしまう。
もしご飯が「だま」になっているようだったら酒を振り掛けると不思議とほぐれる。
十分に炒めたら長ネギのみじん切りをたっぷり加えて、
ここでもう一度余分な油を吸わせてしまう。
最後に塩と、それから隠し味に鍋肌から醤油をほんの少し回し入れて炒め、
醤油の香ばしさを出す。これでおいしい炒飯が出来る。
しかし炒飯の本場広東では砂糖を使い、さらにはもう一つ隠し味が入る。
鹹魚(ハムユイ 広東語)といってヽ主に曹白魚(ツァオパイユイ)を
塩漬けにして乾燥させたもので、香りは強いがなんともいえない風味がある。
鹹魚は広州や香港の市場ならどこにでもある。市場には鹹魚の専門店もある。
広東人にはそのくらい親しまれている味なのである。
広束で遊んだら絶対に広東名物の炒飯を食べること、
そして市場で忘れずに鹹魚を買うこと。切り身もあるから荷物にならない。
その時使い方を聞いてメモしておくことも大切。
砂糖と鹹魚で炒飯への想いが変わる。是非お試しを
小菅桂子(食文化研究家)
久しぶりの南大阪
JR信太山駅から池上曽根遺跡をへて南海 松ノ浜駅まで歩いた。
阪堺の路面電車に終点から終点まで乗り、通天閣下の雑踏を眺めて兵庫県に戻る。
after riding a street tram through south Osaka, visited the famous area near the old tower "TsuTenKaku". a lot of foreign tourist here.
神戸市東灘区深江(2)
2017年5月6日 地歴
深江の子供たちが通う小中学校は、深江に洋風建築が多くあった時代の様式を残してスパニッシュ瓦に塔をのせています(写真上)
東京と神戸にしかなかった高等商船学校は、wikipediaによると「学費が無償であったことに加え、募集人員が航海・機関科それぞれ数十名と少なかったこと、将来、高級船員という“花形職業”に就けること、高級船員が民間外交官の役割を担っていたこと、海軍予備員制度により、徴兵が猶予され、卒業後は予備士官に任官されることなどから、難関校として知られ、全国から秀才が集まった」とのこと。 写真下は、戦前、深江にあった神戸高等商船の本館。
東京と神戸にしかなかった高等商船学校は、wikipediaによると「学費が無償であったことに加え、募集人員が航海・機関科それぞれ数十名と少なかったこと、将来、高級船員という“花形職業”に就けること、高級船員が民間外交官の役割を担っていたこと、海軍予備員制度により、徴兵が猶予され、卒業後は予備士官に任官されることなどから、難関校として知られ、全国から秀才が集まった」とのこと。 写真下は、戦前、深江にあった神戸高等商船の本館。
阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の石碑
2017年3月9日 歴史物京都清水寺境内に東北地方に攻め寄せた大軍を何度も翻弄した蝦夷の首領たち、阿弖流為と母礼の石碑がある。
清水寺は征夷大将軍 坂上田村麻呂が彼の好敵手だった蝦夷の首長たちの鎮魂のために建立した。
789年(延暦8年)、征東大将軍 紀古佐美は、5万の兵を率いて北上川流域(日高見国)に侵攻。ここに、13年にわたって3人の将軍が交代する戦争が始まった。
この時、初めて蝦夷の首領「阿弖流為:アテルイ」が記録に登場します。
アテルイは記録によっては悪路王とも書かれる。
悪路は首領を意味する「あじ(按司)」または「あるじ(主)」の当て字か?
大墓公(おおものきみ)、赤頭王との称もある。
このときの朝廷軍は巣伏(すぷせ)の戦いに完敗し敗走。
794年、征夷大将軍 大伴弟麻呂は、10万もの大軍を進めたが、朝廷軍 再び敗退。
797年、坂上田村麻呂が征夷大将軍となる。
彼は渡来人、阿智使主(あちのおみ)の子孫。
背が高く、がっしりした体格で
肌はピンク色、毛はブロンド(赤面黄鬚)
田村麻呂は801年に桓武天皇から節刀を賜わり少数精鋭の軍をもって東北に侵攻した。
802年には。ついにアテルイの本拠地に入り、胆沢城を築く。
アテルイは。盟友モレとともに田村麻呂に投降。
田村麻呂は朝廷に2人の助命を嘆願したが、貴族たちの会議はこれを拒絶。
802年8月13日、2人は河内国椙山(現大阪府枚方市)で処刑された。
蝦夷の勇者たちは死んだが、彼らの後には前九年、後三年の役の英雄 安倍貞任・宗任が続き、その後、独立を回復した東北は奥州平泉王国を成立させ、馬と黄金の国として繁栄した。
清水寺は征夷大将軍 坂上田村麻呂が彼の好敵手だった蝦夷の首長たちの鎮魂のために建立した。
789年(延暦8年)、征東大将軍 紀古佐美は、5万の兵を率いて北上川流域(日高見国)に侵攻。ここに、13年にわたって3人の将軍が交代する戦争が始まった。
この時、初めて蝦夷の首領「阿弖流為:アテルイ」が記録に登場します。
アテルイは記録によっては悪路王とも書かれる。
悪路は首領を意味する「あじ(按司)」または「あるじ(主)」の当て字か?
大墓公(おおものきみ)、赤頭王との称もある。
このときの朝廷軍は巣伏(すぷせ)の戦いに完敗し敗走。
794年、征夷大将軍 大伴弟麻呂は、10万もの大軍を進めたが、朝廷軍 再び敗退。
797年、坂上田村麻呂が征夷大将軍となる。
彼は渡来人、阿智使主(あちのおみ)の子孫。
背が高く、がっしりした体格で
肌はピンク色、毛はブロンド(赤面黄鬚)
田村麻呂は801年に桓武天皇から節刀を賜わり少数精鋭の軍をもって東北に侵攻した。
802年には。ついにアテルイの本拠地に入り、胆沢城を築く。
アテルイは。盟友モレとともに田村麻呂に投降。
田村麻呂は朝廷に2人の助命を嘆願したが、貴族たちの会議はこれを拒絶。
802年8月13日、2人は河内国椙山(現大阪府枚方市)で処刑された。
蝦夷の勇者たちは死んだが、彼らの後には前九年、後三年の役の英雄 安倍貞任・宗任が続き、その後、独立を回復した東北は奥州平泉王国を成立させ、馬と黄金の国として繁栄した。
古代史 百済 新羅 倭
2017年3月9日 歴史物パソ通時代 歴史フォーラムへの投稿記事? 詳細不明
古墳時代中期 百済・新羅と倭の関係
日本では、人質というと服属儀礼のような印象があります。三国史記を読んでの印象では、三国における人質は服属の証しというより王族による命がけの外交を意味するように思われます。「質」という言葉は、担保を意味しますがまさに相手国から軍事的援助を引き出す前提としての担保を意味します。「質」を受け入れておいて、軍事的支援はしないとなると、銀行が担保だけとって、貸し出しはしないというのに等しい違約行為のようです。
ここで百済と新羅の倭での外交活動を推測しますと高句麗の圧迫に対する軍事支援とともに、百済・新羅が任那(加耶)諸国を蚕食するにあったって倭が介入しないことを目的としたと思われます。
百済の場合は、概ね、この外交目的を達したようです。
405年 腆支王即位
晋書安帝紀(413年)に倭と高句麗の入貢記事があります。新羅の未斯欣は、402年~418年まで倭に滞在しています。16年といえば当時の人の平均寿命からして人生の相当な部分を倭ですごしたことになります。3年間は百済の腆支の滞在期間と重なります。腆支が帰国して百済王となったことも承知していたことと思われます。
417年、未斯欣を派遣した実聖王は、未斯欣の兄、納祇によって殺されます。倭は、このとき未斯欣を新羅王として擁立しようとして失敗したと推定されます。
三国史記 新羅本紀及び朴堤上列伝による
421年 倭王讃 遣使
125年 倭王讃 遣使
420-428 ? 腆支王没
430年 倭王讃 遣使
438年 倭王讃の死、弟の珍 遣使
腆支王の時代に倭と百済の関係が飛躍的に発展した一方、倭と新羅との関係が決定的に悪化した時期でもあります。
古墳時代中期 百済・新羅と倭の関係
日本では、人質というと服属儀礼のような印象があります。三国史記を読んでの印象では、三国における人質は服属の証しというより王族による命がけの外交を意味するように思われます。「質」という言葉は、担保を意味しますがまさに相手国から軍事的援助を引き出す前提としての担保を意味します。「質」を受け入れておいて、軍事的支援はしないとなると、銀行が担保だけとって、貸し出しはしないというのに等しい違約行為のようです。
ここで百済と新羅の倭での外交活動を推測しますと高句麗の圧迫に対する軍事支援とともに、百済・新羅が任那(加耶)諸国を蚕食するにあったって倭が介入しないことを目的としたと思われます。
百済の場合は、概ね、この外交目的を達したようです。
405年 腆支王即位
晋書安帝紀(413年)に倭と高句麗の入貢記事があります。新羅の未斯欣は、402年~418年まで倭に滞在しています。16年といえば当時の人の平均寿命からして人生の相当な部分を倭ですごしたことになります。3年間は百済の腆支の滞在期間と重なります。腆支が帰国して百済王となったことも承知していたことと思われます。
417年、未斯欣を派遣した実聖王は、未斯欣の兄、納祇によって殺されます。倭は、このとき未斯欣を新羅王として擁立しようとして失敗したと推定されます。
三国史記 新羅本紀及び朴堤上列伝による
421年 倭王讃 遣使
125年 倭王讃 遣使
420-428 ? 腆支王没
430年 倭王讃 遣使
438年 倭王讃の死、弟の珍 遣使
腆支王の時代に倭と百済の関係が飛躍的に発展した一方、倭と新羅との関係が決定的に悪化した時期でもあります。
伝統の宿 全国版 (旧資料)
2017年3月8日 旅行本陣寿旅館 埼玉県秩父郡小鹿野町314
寺田屋 京都市伏見区南浜街263
御花 福岡県柳川市新外町1
八雲本陣 島根県八東郡宍道町1335
麻吉 三重県伊勢市中之町109
福喜 福井県小浜市港6ー17
延暦寺会館 滋賀県大津市坂本本町比叡山
新薬師寺宿坊 奈良県奈良市高畑福井町
松阪屋本店 神奈川県足柄下郡箱根町芦の湯
生駒屋 長野県木曽郡南木曽町妻篭
磯野旅館 北海道積丹郡積丹町大字美国町
大内宿 福島県南会津郡下郷町大字大内
大橋屋 愛知県宝飯郡音羽町赤坂字紅里127
松田屋 山口県山口市湯田温泉3ー6ー7
倉浜荘 鹿児島県川辺郡坊津町坊5874
春帆楼 山口県下関市阿弥陀寺町4ー2
重富荘 鹿児島県鹿児島市清水町31ー7
楽々園 滋賀県彦根市金亀町3ー4ー4
八景亭 滋賀県彦根市金亀町3ー4ー1
羽黒山斎館 山形県東田川郡羽黒町
大沢温泉 静岡県加茂郡松崎町大沢 依田家
毛越寺宿院 岩手県西磐井郡平泉町大沢58
湯元不忘閣 宮城県柴田郡川崎町青根温泉湯元
敷島館 香川県仲多度郡琴平町内町713
渋川問屋 福島県会津若松市七日町3-28
油屋 岡山県高梁市本町38
ふじのや 徳島県鳴門市大麻町板東
鍵屋 大阪府枚方市堤町10ー2
柏屋別荘 長野県上田市別所温泉1640
なかむらや 福島県福島市飯坂町湯沢18
藤屋 長野市大門町80
備考 旧い資料です。 廃業あるかもしれません
旧明石郡(現在の神戸市垂水区、西区、明石市)では明治以降、イギリスから大口径の鋳鉄管を輸入し、全国でも有数の疎水工事が行われるが、その先駆けというべきものが江戸時代にある。林崎疎水である。村々が連携して大規模な工事をした様が堂々たる漢文で綴られ巨大な碑文にきざまれている。
以下 碑文の縦書きを横書きにし、旧字を新字に一部変更。ふたつ みっつ転写ミスもありそう。
林崎庄内諸村田水不足有池矣而不停豬以故苗不碩小旱輙不登百姓疾苦久之明暦三年冬十月野ヒ上組代官和坂村伊藤次郎左衛門及庄屋和坂村甲谷五郎兵衛伊藤傅兵衛鳥羽村岸本参入夫林村伊藤六兵衛隅谷七兵衛石井六郎右衛門小網喜兵衛東松江村實安傅右衛門西松江村岩井三郎兵衛藤江村神足多兵衛伊藤次郎右衛門胥議圖穿渠引赤石川上流畜水於池以利漑浸當是時和坂村有工師山崎宗左衛門者頗善心計乃令測地高下以為可引押部川入西戸田村中閘口歴印路村中村上津橋村注平太口乃後状聞故鎭公 松平山城侯請興人徒為渠即遣有司審問伊藤及甲谷岸本等僉日渠就水不注罰我以嚴刑不悔也遂立約録呈乃許之於是穿渠自中閘口抵平太口長二千九百五十六歩廣五尺以翌年萬治元季戊戌夏四月成果水不填閼池扨禾大熟渠成三歳上下頼其利 侯甚喜之毎歳給功干夫糧十斛脩溝堰不廢壊其券見在和坂村又以宗左衛門特有勞令子孫為嫡者免治渠役券在其家焉 嗣君日向候時寛文十一年辛亥火禾鳥羽新田村庄屋岩佐三右衛門請引林崎渠因令有司穿渠廣加於故二尺合為七口水利益饒 侯乃賜伊藤及甲谷山斥本等十三人中谷新田五反九畝拾四歩供林崎渠之費且 命異(日得替之浚汝等聞諸本鎭世ヒ勿絶云寶永四季丁亥夏四月号鎮公 松平武衛君以林崎渠於民便欲引水灌西浦邊野ヒ上二部旱扨田乃設新閘口於黒田村渠廣加於故三尺穿白平太口而下是為新渠又於平太口分定水口為故渠六尺新渠三尺中疇四尺一寸六分乃令新渠諸落凡脩閘之費出三之一渠事無小大一以林崎為準使庄屋為其保納券有司乃賜其券於剏故渠者繕治伏樋溝橋以石 命黒田常本西戸田印路中村上津橋六村民自今而後勿有生事以害水利云其券亦在和坂村焉是歳甲寅秋和坂村伊藤治兵衛鳥羽村岸本清右衛門新田村岩佐三右衛門林村伊藤彌兵衛小川徳左衛門伊藤善七郎東松江村大喜多善右衛門西松江村松尾五郎兵衛藤江村山内三右衛門伊藤利八郎諸庄屋請邦美為之記且告日斯渠也 山城侯與諸前 武衛君弘諸後 二賢之仁民也深矣不可以不傅焉邦美既善其報徳之有誠又信王政樂利之果不可誣也於是乎書
年保十九年甲寅火木七月 赤石儒臣梁田邦美謹撰
右林崎渠記總八百四十言皆實録也其所謂毎歳給功干夫糧十斛者於渠事為最便断乎不可廢矣佗日必以斯言徴焉
享保廾年乙卯秋八月 郡代井上新助實政
以下 碑文の縦書きを横書きにし、旧字を新字に一部変更。ふたつ みっつ転写ミスもありそう。
林崎庄内諸村田水不足有池矣而不停豬以故苗不碩小旱輙不登百姓疾苦久之明暦三年冬十月野ヒ上組代官和坂村伊藤次郎左衛門及庄屋和坂村甲谷五郎兵衛伊藤傅兵衛鳥羽村岸本参入夫林村伊藤六兵衛隅谷七兵衛石井六郎右衛門小網喜兵衛東松江村實安傅右衛門西松江村岩井三郎兵衛藤江村神足多兵衛伊藤次郎右衛門胥議圖穿渠引赤石川上流畜水於池以利漑浸當是時和坂村有工師山崎宗左衛門者頗善心計乃令測地高下以為可引押部川入西戸田村中閘口歴印路村中村上津橋村注平太口乃後状聞故鎭公 松平山城侯請興人徒為渠即遣有司審問伊藤及甲谷岸本等僉日渠就水不注罰我以嚴刑不悔也遂立約録呈乃許之於是穿渠自中閘口抵平太口長二千九百五十六歩廣五尺以翌年萬治元季戊戌夏四月成果水不填閼池扨禾大熟渠成三歳上下頼其利 侯甚喜之毎歳給功干夫糧十斛脩溝堰不廢壊其券見在和坂村又以宗左衛門特有勞令子孫為嫡者免治渠役券在其家焉 嗣君日向候時寛文十一年辛亥火禾鳥羽新田村庄屋岩佐三右衛門請引林崎渠因令有司穿渠廣加於故二尺合為七口水利益饒 侯乃賜伊藤及甲谷山斥本等十三人中谷新田五反九畝拾四歩供林崎渠之費且 命異(日得替之浚汝等聞諸本鎭世ヒ勿絶云寶永四季丁亥夏四月号鎮公 松平武衛君以林崎渠於民便欲引水灌西浦邊野ヒ上二部旱扨田乃設新閘口於黒田村渠廣加於故三尺穿白平太口而下是為新渠又於平太口分定水口為故渠六尺新渠三尺中疇四尺一寸六分乃令新渠諸落凡脩閘之費出三之一渠事無小大一以林崎為準使庄屋為其保納券有司乃賜其券於剏故渠者繕治伏樋溝橋以石 命黒田常本西戸田印路中村上津橋六村民自今而後勿有生事以害水利云其券亦在和坂村焉是歳甲寅秋和坂村伊藤治兵衛鳥羽村岸本清右衛門新田村岩佐三右衛門林村伊藤彌兵衛小川徳左衛門伊藤善七郎東松江村大喜多善右衛門西松江村松尾五郎兵衛藤江村山内三右衛門伊藤利八郎諸庄屋請邦美為之記且告日斯渠也 山城侯與諸前 武衛君弘諸後 二賢之仁民也深矣不可以不傅焉邦美既善其報徳之有誠又信王政樂利之果不可誣也於是乎書
年保十九年甲寅火木七月 赤石儒臣梁田邦美謹撰
右林崎渠記總八百四十言皆實録也其所謂毎歳給功干夫糧十斛者於渠事為最便断乎不可廢矣佗日必以斯言徴焉
享保廾年乙卯秋八月 郡代井上新助實政
道後温泉に建てられていたという石碑、伊予湯岡碑は六朝風の漢文で綴られていた。碑は失われたが、いくつかの書物に引用されている。『釈日本紀』『万葉集註釈』『伊予国風土記逸文』
古代の日本で、この文章が書けたのかと疑われるような名文。温泉を楽しんでいると書かれているのは聖徳太子と、その師で高句麗僧の恵慈、葛城臣(烏那羅)。
「法興六年(596年)十月、歳丙辰にあり。我が法王大王と慧慈の法師及葛城臣と、夷与の村に逍遥び、正しく神の井を観て、世の妙しき験を歎きたまひき(法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験)」と始まる。
聖徳太子を「我が法王大王」と賛美するのは太子の領国であった伊予ならではのこと。
碑の本文
山岳(やま)の巖崿(いはぎし)を窺ひ望みて、反(かへ)りて子平(しへい)のごと往(ゆ)かまく冀(こひねが)ひ、椿樹(つばき)は相廕(あひおほひ)て穹窿(おほぞら)なし、実(まこと)に五百(いほ)つ蓋(きぬがさ)を張れるかと想ふ。臨朝(あした)に鳥啼きて戯(たはぶ)れ哢(さへづ)る。何ぞ乱(さや)げる音(こゑ)の耳に聒(かしま)しきを暁(さと)らむ。丹(に)の花は葉を巻(あつ)めて映照(てりは)え、玉の菓(このみ)は葩(はなびら)を弥(おほ)ひて井に垂る。其の下を経過(へす)ぎて優(ゆた)に遊ぶべし。
窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊
かなり前にコピーした読み下し文と現代語訳を貼り付けました。
山や岡の巌の崖を望んで、六朝の詩人、子平の詩にあるように登っていけたらという思いにとらわれる。椿の木は互いに覆い合って無数の絹傘を張ったようである。朝には鳥が鳴いてたわむれ、さえずるがその鳴き声もやかましくは感じられない。赤い花は緑の葉を集めて照り映え、玉のような果実は花びらを覆って、温泉の上に垂れている。この見事な椿の木のもとに、ゆったりと遊びたい。
石碑は、地震で倒壊したとも言われています。
古代の日本で、この文章が書けたのかと疑われるような名文。温泉を楽しんでいると書かれているのは聖徳太子と、その師で高句麗僧の恵慈、葛城臣(烏那羅)。
「法興六年(596年)十月、歳丙辰にあり。我が法王大王と慧慈の法師及葛城臣と、夷与の村に逍遥び、正しく神の井を観て、世の妙しき験を歎きたまひき(法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験)」と始まる。
聖徳太子を「我が法王大王」と賛美するのは太子の領国であった伊予ならではのこと。
碑の本文
山岳(やま)の巖崿(いはぎし)を窺ひ望みて、反(かへ)りて子平(しへい)のごと往(ゆ)かまく冀(こひねが)ひ、椿樹(つばき)は相廕(あひおほひ)て穹窿(おほぞら)なし、実(まこと)に五百(いほ)つ蓋(きぬがさ)を張れるかと想ふ。臨朝(あした)に鳥啼きて戯(たはぶ)れ哢(さへづ)る。何ぞ乱(さや)げる音(こゑ)の耳に聒(かしま)しきを暁(さと)らむ。丹(に)の花は葉を巻(あつ)めて映照(てりは)え、玉の菓(このみ)は葩(はなびら)を弥(おほ)ひて井に垂る。其の下を経過(へす)ぎて優(ゆた)に遊ぶべし。
窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊
かなり前にコピーした読み下し文と現代語訳を貼り付けました。
山や岡の巌の崖を望んで、六朝の詩人、子平の詩にあるように登っていけたらという思いにとらわれる。椿の木は互いに覆い合って無数の絹傘を張ったようである。朝には鳥が鳴いてたわむれ、さえずるがその鳴き声もやかましくは感じられない。赤い花は緑の葉を集めて照り映え、玉のような果実は花びらを覆って、温泉の上に垂れている。この見事な椿の木のもとに、ゆったりと遊びたい。
石碑は、地震で倒壊したとも言われています。
古代の西宮には大阪湾から大きく内陸に入り込んだ入り江があった。廣田神社の丘の麓にまで波が打ち寄せていた。御前の浜である。この状況はスケールは違うが生駒山の麓まで波打ち際が広がっていた古代の東大阪に似る。
西宮では、およそ阪急神戸線が入り江の北の渚で、今津線が東の岸。南側には西宮戎をのせる砂洲が続いて、入り江の波よけになっていた。 夙川も今の流路につけかえられるまで、越水の丘の南側で入り江にそそいでいたと考えられる。 入り江と外海との出入口はきわめて狭い。
武庫の海をなぎたる朝にみわたせば眉も乱れぬあはの嶋山(廣田社 歌合)
この歌は廣田神社のあたりから武庫の入り江と淡路島をみわたした景色だろうか。
入り江は、古墳時代に全国から集まった数百隻の舟が停泊したという伝説を残す武庫水門(みなと)の有力候補地でもある。入り江の西と北は遠浅のようなので停泊地は戎社の北か今津方面。津門(つと)という地名も残る。西宮のヨットハーバーは、まさに武庫湊の現代版。
後世の絵図にも、入り江の名残がうかがわれる。広田神社から南にのびる松並木の土手が札場筋で、かつての水面の上を橋のように横断している。
西宮七園と呼ばれる住宅地は、ほぼ、この入り江の周りに分布している。
西宮では、およそ阪急神戸線が入り江の北の渚で、今津線が東の岸。南側には西宮戎をのせる砂洲が続いて、入り江の波よけになっていた。 夙川も今の流路につけかえられるまで、越水の丘の南側で入り江にそそいでいたと考えられる。 入り江と外海との出入口はきわめて狭い。
武庫の海をなぎたる朝にみわたせば眉も乱れぬあはの嶋山(廣田社 歌合)
この歌は廣田神社のあたりから武庫の入り江と淡路島をみわたした景色だろうか。
入り江は、古墳時代に全国から集まった数百隻の舟が停泊したという伝説を残す武庫水門(みなと)の有力候補地でもある。入り江の西と北は遠浅のようなので停泊地は戎社の北か今津方面。津門(つと)という地名も残る。西宮のヨットハーバーは、まさに武庫湊の現代版。
後世の絵図にも、入り江の名残がうかがわれる。広田神社から南にのびる松並木の土手が札場筋で、かつての水面の上を橋のように横断している。
西宮七園と呼ばれる住宅地は、ほぼ、この入り江の周りに分布している。
甲和館Web作りでわかったgoogleとBingの比較
2017年1月8日 サービス体験まず、今現在、独自の検索体制を持つとされるBingを見ると消したページがまだある
メニューからキャッシュを選ぶと無いはずのページを読むことができる。これは、うっかり消したページをまた読みたいときは、ありがたくもあり、保存しておいてほしくないページが出てくるときは困る機能です。
googleのほうは、404エラーを吐き出して、旧ページを表示しません。
The requested URL was not found on this server. That’s all we know.
これで見る限りBingのほうが過去ページの閲覧に使えるということかもしれません。
ヤフージャパンで「甲和館」を検索するとグーグルと同じ結果になります。グーグルの技術を全面的に使っていることがわかります。
現在、米露中をのぞいて独自の検索エンジンを大規模に運用しているのはチェコ(Seznam)と韓国(Naver)だけのようです。
甲和館について書いたあと
2017年1月5日 サービス体験【記事修正のお知らせ】 1月8日に詳しい記事を書いたので「甲和館について書いたあと」は消してもよかったのですが、年末に書いた甲和館の記事を消して、その後が混乱したので消去をやめて修正にします。 本来なら年末の記事を修正していくほうがよかったのかもしれません。
甲和館の記事は、年末が初出。削除済。「ウェブを作成するも、検索エンジンにでてこない」との内容。
1月5日に「検索エンジンに出てきている」と修正。グーグルの圧倒的なシェアについてふれたあと、bingとhatenaについて加筆
日本での検索アルゴリズム2位はシェア3%とか言われる http://bing.com
人力検索はてな http://q.hatena.ne.jp/categories
これは、かつての ヤフー カテゴリー検索にも通じる
「はてな」の健闘を期待してます。
甲和館の記事は、年末が初出。削除済。「ウェブを作成するも、検索エンジンにでてこない」との内容。
1月5日に「検索エンジンに出てきている」と修正。グーグルの圧倒的なシェアについてふれたあと、bingとhatenaについて加筆
日本での検索アルゴリズム2位はシェア3%とか言われる http://bing.com
人力検索はてな http://q.hatena.ne.jp/categories
これは、かつての ヤフー カテゴリー検索にも通じる
「はてな」の健闘を期待してます。
戦前の神戸にはサッスーン一族など、有力なユダヤ系市民がいた。欧州からシベリアを経由して日本にやってきたユダヤ人難民の8割近くが神戸に身を寄せたのは、このような事情による。
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2015年秋の朝日新聞記事
第2次世界大戦中、外交官だった故・杉原千畝氏が発給した「命のビザ」でナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ難民を、神戸で 支えた人たちがいた。米国 のホロコースト博物館でボランティア講師をしている ユダヤ人男性とその妻が27 日、神戸を訪れ、当時の支援者の娘らに感謝を伝えた。 「あなたたちの支援を永久に忘れません。心の底からありがとうと伝えます」 米国に住むサイ・スタットマウアーさん(72)とジョアンさん(71)夫妻は、神戸市灘区の筒井篤子さん(91)らに語りかけた。夫妻は杉原氏のビザで救われた先人の足跡をたどり、ゆかりの人に謝意を伝えたいと来日した。1940年、リトアニア領事代理だった杉原氏は、ユダヤ難民に外務省の指示に反して日本通過ビザを発給。6千人ともいわれる人が欧州から福井・敦賀にたどり着いた。このうち約4600人が米国などへ渡る前、ユダヤ人コミュニティーがあった神戸に一時滞在したとされる。
筒井さんの父、故・斉藤源八さんは当時、今の神戸市長田区にあった教会の牧師 斉藤さんらはユダヤ難民にリンゴを配るなどの支援を続けたという。当時は学生だった筒井さんは、「父はユダヤの人たちが国を持てるよう祈っていました。 私も当時、神戸港から出航するユダヤの人を教会の人たちと見送りました。迫害から逃れて神戸に来たユダヤの人たちはとても朗 らかでした」
ユダヤ難民の大半は41年秋ごろまでに出国。翌年春に斉藤さんは 特高警察に逮捕され、その後に教会も閉鎖された。
だが、神戸でのユダヤ難民支援について神戸市が まとめた市史に記述はなく公的な記録はほとんど残されていないという。神戸の ユダヤ人コミュニティーを 研究し、両者の面会を橋渡しした元神戸女子大非常勤講師の岩田隆義さん(74)は「証言者も少なくなり、ユダヤの人たちが神戸に残したかすかな痕跡は今たどらなければ失われる」と訴える。
(大川洋輔、金井和之)
父親が神戸でユダヤ人の世話をした筒井篤子さんと、戦前の写真を見ながら交流するユダヤ人夫妻27日午後、神戸市中央区、 水野義則撮影。 神戸に逃れてきたユダヤ人にリンゴを配る牧師たち(斉藤真人さん提供)
「大戦中 ユダヤ難民支えた神戸へ」2015.10.28 wed 朝日新聞 p37
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2015年秋の朝日新聞記事
第2次世界大戦中、外交官だった故・杉原千畝氏が発給した「命のビザ」でナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ難民を、神戸で 支えた人たちがいた。米国 のホロコースト博物館でボランティア講師をしている ユダヤ人男性とその妻が27 日、神戸を訪れ、当時の支援者の娘らに感謝を伝えた。 「あなたたちの支援を永久に忘れません。心の底からありがとうと伝えます」 米国に住むサイ・スタットマウアーさん(72)とジョアンさん(71)夫妻は、神戸市灘区の筒井篤子さん(91)らに語りかけた。夫妻は杉原氏のビザで救われた先人の足跡をたどり、ゆかりの人に謝意を伝えたいと来日した。1940年、リトアニア領事代理だった杉原氏は、ユダヤ難民に外務省の指示に反して日本通過ビザを発給。6千人ともいわれる人が欧州から福井・敦賀にたどり着いた。このうち約4600人が米国などへ渡る前、ユダヤ人コミュニティーがあった神戸に一時滞在したとされる。
筒井さんの父、故・斉藤源八さんは当時、今の神戸市長田区にあった教会の牧師 斉藤さんらはユダヤ難民にリンゴを配るなどの支援を続けたという。当時は学生だった筒井さんは、「父はユダヤの人たちが国を持てるよう祈っていました。 私も当時、神戸港から出航するユダヤの人を教会の人たちと見送りました。迫害から逃れて神戸に来たユダヤの人たちはとても朗 らかでした」
ユダヤ難民の大半は41年秋ごろまでに出国。翌年春に斉藤さんは 特高警察に逮捕され、その後に教会も閉鎖された。
だが、神戸でのユダヤ難民支援について神戸市が まとめた市史に記述はなく公的な記録はほとんど残されていないという。神戸の ユダヤ人コミュニティーを 研究し、両者の面会を橋渡しした元神戸女子大非常勤講師の岩田隆義さん(74)は「証言者も少なくなり、ユダヤの人たちが神戸に残したかすかな痕跡は今たどらなければ失われる」と訴える。
(大川洋輔、金井和之)
父親が神戸でユダヤ人の世話をした筒井篤子さんと、戦前の写真を見ながら交流するユダヤ人夫妻27日午後、神戸市中央区、 水野義則撮影。 神戸に逃れてきたユダヤ人にリンゴを配る牧師たち(斉藤真人さん提供)
「大戦中 ユダヤ難民支えた神戸へ」2015.10.28 wed 朝日新聞 p37