甲子園の南インド料理
ララポートのやや北に
三宮のチャルテ・チャルテ chalte chalte が店を出した

阪神間で初めて本格的な南北のインド料理を
食べることのできる店というふれこみ。

メニューの種類も多い。
味は北野町のクスム本場家庭料理と比べると
日本人向けに食べやすくしてあるようだが、よい味である。

2009.11.15 開店

西宮市甲子園七番町20-5
Uハイツ甲子園 1F
0798-43-6009
李舜臣と脇坂安治
狭き海有り 広き海有り 近き道有り
陸立ちの所も有り
畢竟その場の能らん所を見たて
兵船を遣すべし 

瀬戸内村上水軍の総帥、村上武吉が書いた?という
「軍船巻第一」にある言葉だそうですが
これは李舜臣のためにある言葉のように見えます。
一瞬の戦機を捉える司令官の才能は
日本海海戦やミッドウェー海戦を見ても
海戦の勝敗を左右する重要な要素です。
そして重要な海戦の帰趨は戦争全体をも左右しています。

天下統一戦における織田信長にしても
第一次大阪湾海戦で惨敗したあと
すみやかに水軍を再建して大阪湾の制海権をにぎり
大阪を降伏させたとき天下人になったというべきです。

私は地元兵庫県の丹波黒井城攻防戦で歴史に登場し
淡路國の大名であったときに
東瀬戸内の水軍を率いて李舜臣と戦った脇坂安治を家祖とし
江戸時代の大部分は龍野の殿様だった
脇坂家をしらべていて李舜臣にいきつきました。

龍野、淡路島、丹波黒井は、いづれも兵庫県に属します。

洲本城主としての安治のもとでは
由良、鳴門(撫養)、岩屋(菅)、塩飽、笠岡(真鍋水軍)などの
瀬戸内海東部の海賊衆が戦ったようですが
海賊衆の人数は洲本藩の動員兵力の
なかには含まれていないようです。
万戸制をしいて水軍をささえた朝鮮半島とは異なり
日本の場合、石高で水軍(海賊)の実力を測ることはできません。

文禄・慶長の海戦は日本側の記録が乏しく
詳細は「乱中日記」など李舜臣が残した記録に大きく依存しています。
我々は李舜臣の目を通して海戦の数々をながめているといえます。

それゆえ、このあたりは注意して読まねばなりません。
李舜臣は戦果をひかえめに報告したことも多いようですが
それでも「戦果を過大に報告し朝廷を欺いた罪」に問われた
のですから。

脇坂家の初代、安治の言葉として流布している
次の言葉も原文は韓国語であろうと思われます。
いわゆる「脇坂記」のなかに、これに相当するものが
あるのかどうか、今のところ不明です。

 私がいちばん恐れる人は李舜臣であり、
 最も憎い人も李舜臣であり、
 最も好む人も李舜臣であり、
 最も欽慕して崇めたてる人も李舜臣であり、
 最も殺したい人もやはり李舜臣であり、
 最も茶を一緒に飲みたいのもまさに李舜臣だ

愛憎ここに極まるという感じがしますねえ。

江戸時代には老中を出す家として脇坂家は有名だったかもしれませんが
今では兵庫県でも龍野に行かないと知名度はあまりありますまい。
おそらく脇坂安治(와키자카 야스하루)は李舜臣の天敵として
日本より韓国のほうで有名なのではないでしょうか。

http://www.epcott.co.jp/isunsin/cast.html
このドラマで李舜臣の相手をする艦隊は
輪違い紋(脇坂家の家紋)をかかげていることが
圧倒的に多いのですが
このあたりはどうも日本人の持つイメージとかなり違います。

安治は賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる勇将であるとともに
文武両道に秀でていた点で李舜臣に通ずるものがありますが
日本では水軍の将としての知名度は
九鬼嘉隆のほうがはるかに高いですね。

余談ながら九鬼家は兵庫県三田の殿様として
江戸時代を過ごしました。
三田藩は明治時代の神戸の近代化に
大きく貢献しています。

話は16世紀に戻ります。

晩年の秀吉はいただけませんねえ。

天下惣無事(日本に平和をもららす)を唱えながら
大戦争を起こしたのですから。

朝鮮出兵は督戦の奉行として渡海した石田三成と
多大な人的被害を出しながら督戦される
諸将との関係を険悪なものとし
関が原の西軍惨敗の伏線となります。
水軍を率いた大名たち(藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明)が
家康に好意をよせ始めるのも、この時期です。

秀吉は、よくよく水軍を軽視し、水軍に嫌われた人でありました。
戦国時代、瀬戸内最強の水軍を率いた村上武吉の秀吉嫌いは相当のものでした。
武吉は秀吉によって瀬戸内海から追放され、秀吉の死後
瀬戸内に戻ってきます。

大阪の陣で大阪城はあっけなく落城し豊臣家は滅亡しました。
戦国時代の石山合戦で大阪が十年にわたる包囲に耐えたのは
大阪湾の制海権を維持し、水軍による補給があったからです。
藤堂、脇坂、加藤の諸大名は関が原の時点で家康支持でしたし
大阪の陣で豊臣を支持した水軍は皆無でありました。
脇坂安治のみが豊臣に弓をひくことができず大名をやめて
京都で隠居しますが脇坂家は大名として存続します。

全羅道を根拠地とした李舜臣は
百済や清海鎮、三別抄など
水軍の長い伝統を持つ地域をよく生かして
戦いを挑んだように見受けられます。

ひるがえって秀吉は海賊禁止令によって
九鬼水軍を弱体化させ
日本最強といわれた村上水軍を解体した上に
小早川隆景や村上武吉のような
海戦には百戦錬磨の武将たちに
水軍を指揮させることをしなかった。

飛車角落ちで名人に挑んだようなものです。

http://filologos.diarynote.jp/200811241000128824 清海鎮

http://filologos.diarynote.jp/200803110850520000 瀬戸内水軍

写真は韓国のテレビドラマに登場した脇坂水軍 (見乃梁)

サグ

2009年11月7日 各種情報
サグ
高速道路で下り坂のあと登りになっているような区間を
サグといい渋滞が発生する。

名神高速の京都・大阪間では大山崎BS(バス停)付近が典型。
朝は上り、夕方は下りが渋滞する。長さは、ほぼ10km。

2009年11月7日の下り(夕方)では、このサグの底のあたりで
玉突き事故発生という最悪のパターンとなった。

渋滞を避けて道路を降りた車も多かったようで
渋滞区間はそれほど延びなかったものの
渋滞に突入した車は数十キロクラスの渋滞に匹敵するくらいの
強烈な渋滞に巻き込まれた。

高速道路には登坂車線がよくあるが、このようなところにこそ
登坂車線をつくっておくべきだ。

http://blog.livedoor.jp/kiyonet3/archives/50824919.html


脇坂家 洲本・大洲・飯田・龍野城主
脇坂家は兵庫県とのかかわりが深い殿様である。

大名としての脇坂氏は洲本城主としてはじまり
江戸時代の大半を龍野城主としてすごした。
江戸幕府にあっては老中を出す家柄として
幕政への関与も大きかった。

初代の安治は丹波黒井城攻防戦で勇者として歴史に登場する
戦国の勇将であるとともに歌を好み晩年は京都で隠居した風流人でもあった。  

洲本城主として三好冬康が築いた強大な安宅水軍を引き継ぎ、朝鮮の役では主要な水軍司令官として東瀬戸内から大阪湾にかけての海賊衆(笠岡、塩飽、由良 その他)を束ねた。 

関が原合戦では東軍に寝返ったとされるが、実際には早くからの東軍支持派であって表向西軍支持を装っていたというほうが正確である。

合戦後、洲本城主から大洲城主となり大阪の陣をむかえる。 
このとき豊臣家に弓を引くことを拒否し大名をやめて京都で隠居した。 しかし、脇坂家は取り潰しにはならず、飯田や龍野の領主として存続した。

たつの市は兵庫県の西部、揖保川沿いに広がる。
旧揖保郡の大半を占めている。 
揖保とは飯穂(いいほ)のことで稲穂を意味するらしい。
兵庫県最古(全国的にも最古級?)の古墳群を持つ
川の流域にふさわしい名前である。
風土記は伝説時代の大和朝廷の勇者
野見宿禰と龍野(立野)を結びつけている。
http://filologos.diarynote.jp/200501241405090000/

たつの市には鞆の浦とともに
瀬戸内の古都に数えられる室津がある。
http://ventoeluz.exblog.jp/12353718/

室津を外港とする龍野藩と鞆につながる福山藩は
幕政にかなりの影響力を持った。
福山藩からでた阿部正弘は、その典型である。

龍野城下は赤とんぼの童謡、そうめん、醤油で有名。

龍野は17世紀後半(1672年~)以後
幕府の重役を輩出した脇坂家の城下町として維新をむかえた。
「また出たと坊主びっくり貂(てん)の皮」という川柳は
寺社奉行として、また、老中として辣腕をふるった
脇坂安董(やすただ)を詠んだものである。

藩主の家名は
戦国期の勇将、脇坂安治に由来し
馬印としての貂(てん)の皮も
脇坂家を象徴するものとして
代々伝えられたのであるが
龍野藩時代の脇坂家は
血統としては初代の安治には
つながっていない。

春日局は稲葉 正成(まさなり)の後妻になるが
自分の子供ではなく
夫の先妻の子供の血筋(堀田家)を幕府の重役に押し上げている。

龍野藩主としての脇坂家は譜代のあつかいである。
それ以前の淡路洲本、伊予大洲、信州飯田と転封を重ねた
脇坂家が外様であったのに、その後
なぜ譜代になったのかというと
堀田家から養子をむかえたことによる。
龍野城は、その脇坂安政によって1672年に築かれた。

初代安治は朝鮮の役で東瀬戸内の水軍を率い
緒戦では大敗するが、その後はしぶとく対馬と釜山を結ぶ補給線を守り抜いた。
日本軍が、ある程度、無事に撤退できたことに貢献した諸将のひとりである。

http://filologos.diarynote.jp/200911120655488028/ 李舜臣

http://filologos.diarynote.jp/200911010003256009/ 朝鮮の役 海戦


写真は、関が原合戦屏風

脇坂家の旗印(輪違い紋)が立ちならんでいます。











海戦史 朝鮮の役
海戦史 朝鮮の役
写真は多くの海戦がおこなわれた統営市(통영)
閑麗海上国立公園(한려해상 국립공원)
瀬戸内の風景に似る。
http://jpn.tongyeong.go.kr

近代に至るまで日本の水軍は海兵隊であった。
壇ノ浦の戦いや湊川の戦いがそうであったように
敵艦を撃沈するという艦隊同士の戦いというより
敵艦に乗り込むか上陸しての戦闘が主流であった。

日本では幕末でもなお敵艦を砲撃するときは
陸上の砲台からである。
大艦巨砲による艦砲射撃は(信長の鉄甲船を除いて)
明治の海軍を待たねばならない。
一列に並べた艦隊からの集中砲火によって
敵艦隊を殲滅しようとする全羅道左水使 
李舜臣の戦術は16世紀において出色のものであった。
最初に、この戦術を目にした日本側の水将は、さぞかし驚いた
ことであろう。 同時に、このような巨砲を積んだ船は不安定で
信長の鉄甲船がそうであったように沿岸をソロソロと航行するのが
せいぜいであり、玄界灘を横切る日本の補給線を外洋で
攻撃することはできなかったようである。

武田騎馬隊は鉄砲の集中砲火の前に長篠の合戦で壊滅したが
朝鮮出兵での海戦では突撃する日本の水軍を
大砲を連ねて迎え撃つ朝鮮水軍というパターンがあった。
攻撃側は、ともに砲火がとぎれることを期待していたが
勝利した側には砲撃をとぎれさせない工夫があったようである。
織田信長や李舜臣が高く評価される所以である。

李舜臣は出撃のタイミングもよかった。
水軍を率いる日本側の水軍諸大名たちが陸戦に参加していった
あとの手薄な艦隊がさらに各地に分散したところをねらって
各個撃破していったものである。 敵艦隊についての情報収集に
優れていたことがうかがえる。

この戦役では、戦国最強の海将といわれた能島村上水軍の
村上武吉(むらかみ たけよし)は秀吉に忌避されて参戦せず
三好氏以来の強力な水軍を擁していた阿波蜂須賀藩や
瀬戸内の海賊衆に声望があった小早川隆景も陸軍として動員された。
秀吉の水軍軽視が顕著に見られるところである。
水軍総指揮官としての李舜臣の官位(三道水軍統制使)
は武官の最高位と極めて高いものであった。
彼とつりあうのは九鬼嘉隆ではなく小早川隆景であったろう。

水軍を率いた藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明の諸大名も全員が
関が原で戦っていることが示すように本来の水将ではない。
海戦のないときは陸上の戦闘に従事し水軍兵士を訓練することはなかった。
大水軍を編成して半島の西海岸沿いに北上しようという作戦自体が
慶長の役に至るまで存在していなかったようである。

海賊衆では瀬戸内を代表する村上水軍のうち因島水軍と能島水軍は
統制のとれた水軍としては不参加であり、来島水軍の孤軍奮闘が目立っている。
この戦役で来島水軍は唐浦海戦(1592.6.2)で来島通之(得居通年 1557 - )
鳴梁海戦で来島通総と二人の当主を失う。 対戦相手はともに李舜臣。

日本の海賊衆を束ねた日本側の主要な大名は藤堂高虎であった。
彼は海外派兵に強硬に反対していた大和大納言、豊臣秀長の家老であり
彼自身も朝鮮出兵に反感を持っていたようである。
秀長没後、大納言家を継承した豊臣秀保の名代
大和郡山藩の執政家老(紀伊粉河城主)として朝鮮半島に渡った。
彼にくすぶる出兵への反感は秀吉との間に亀裂を生み
高虎をかばった家康に藤堂家が接近するきっかけになったと思われる。

朝鮮出兵をめぐる秀吉と大和大納言家の間のギクシャクが
秀吉による大和大納言家の取り潰しや、秀保の兄弟である
関白秀次の処刑に関係したかどうかは不明である。

高虎が文禄の役で率いた水軍は紀伊水軍が主力であったらしい。
慶長の役では宇和島(後に大洲や今治)城主として伊予水軍を率いた。
さらに脇坂安治(洲本城主)が淡路島の由良水軍をはじめとする東瀬戸内の水軍
加藤嘉明が現在の愛媛県松山付近の伊予水軍を率いていた。
そのほか、蔚山攻防戦では長宗我部氏の水軍が参加している。
阿波水軍の参加もあり、全体として四国勢というか
紀伊・淡路を加えた南海道諸国の水軍が目立つ。

海賊衆からは伊勢志摩の鳥羽水軍を率いた九鬼嘉隆
淡路島の菅達長(岩屋)、来島水軍の通之・通総兄弟の参加が目立っている。

文禄の役では開戦とともに日本の水軍は慶尚道の水軍を一掃したが
李舜臣率いる全羅道の水軍が出撃してくると
玉浦(옥포)・泗川湾・唐浦と苦戦を重ねる。
唐浦では来島通之が戦死し、亀井琉求守が敗退。

閑山島 見乃梁海戦では脇坂水軍の軍船が壊滅。
脇坂記は戦闘の様子を次のように書く。

------
番船狭き瀬戸内を過ぎて
広き所へ出で、一度に梶を取なおほし
大船を箕の手に分け
味方の船を引き包み
さしつめ引きつめ射る程に
味方の船の内に手負い死人多かり。
敵は大船、味方は小船なれば
叶(かなひ)がたくみへて
本(もと)の瀬戸内へ
引退(ひきしりぞ)かむとしける時
敵の番船おし掛けおし掛け
味方の船へほうろく火矢投げ入れて
即時に船を焼ける間
安治の家臣脇坂左兵衛、渡辺七衛門を始めとし
名有る者共討死しける。
ISBN4-578-12961-6 p109-
(仮名遣い修正)
------

広い海域に出たところで
敵前大回頭をした朝鮮水軍が
左右に翼を広げて包囲殲滅戦を始めたこと
退こうとした脇坂水軍が狭い瀬戸に殺到したとき
総攻撃をかけられて大敗したことが書かれている。

この海戦は安治の抜け駆けといわれるが
攻撃してきた朝鮮水軍を深追いしすぎて
罠にはまったというほうが正確である。

安骨浦海戦では九鬼嘉隆の鳥羽水軍や
加藤 嘉明の伊予水軍(河野水軍系)も大打撃を受けた。

水軍の大敗を聞いた秀吉は
自らの渡海を思いとどまり、水軍に対して
李舜臣と戦うことを避けるよう指示したと言われる。
日本の水軍は、それ以降、文禄の役を通じて
日露戦争のときのロシア艦隊が旅順港に閉じこもったように
釜山港などに閉じこもり海戦を避けた。

慶長の役が始まったとき李舜臣は失脚していた。

慶長2(1597年)三道水軍統制使・元均(ウォンギュン 원균)
が率いた朝鮮水軍は巨済島(漆川梁 칠천량)海戦で壊滅する。
150隻(小船を含めれば数百隻?)の船は
慶尚右水使・裴楔が率いて戦線を離脱した12隻
を除いてすべて破壊され元均、全羅右水使・李億祺
忠清水使・崔湖の三人の提督が戦死した。

このあと提督に復帰した李舜臣は残された十数隻の戦艦を率いて
おしよせた数百隻の日本水軍を鳴梁(명량)海戦に破る。
この海戦で来島水軍の来島通総戦死。

秀吉の死によって、この戦役は終わる。
五大老が半島からの撤兵を指令したとき
小西行長は明と李舜臣の水軍に撤退を阻まれていた。
救援にかけつけた島津水軍と李舜臣の間に
露梁海戦(노량 해전)が勃発する。
この海戦で名提督、李舜臣戦死。
島津水軍は甚大な被害を出しながらも
小西行長の救出に成功する。
樺山氏などの薩摩の水軍を担った家の先祖たちも
この海戦に参加していたようである。

薩摩が主流となった明治の海軍は密かに李舜臣を尊崇していたと
司馬遼太郎は述べるが、李舜臣の生き方や死に方は薩摩武士の
美意識にかなうものがあったことは想像しうる。

http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/09/0906.htm
阿波水軍と朝鮮の役

http://www.searchnavi.com/~hp/tojin/leess/
韓国ドラマに描かれた藤堂高虎

http://homepage2.nifty.com/H-Suga/kan9.html
淡路島の西淡町江尻、江善寺に
脇坂水軍の戦死者を弔う
高麗陣打死衆供養碑があるとのこと。


丹波有縁 尊氏 前久 春日局 脇坂氏
写真は、戦国有数の山城であった
黒井城跡の一部として史跡に
指定されている丹波市春日町黒井の興禅寺。
戦国期の関白、近衛前久(このえ さきひさ)や
春日局ゆかりの建築物でもある。
脇坂家の家宝、貂(てん)の皮は
この黒井城に由来する。

丹波は上杉家の故郷であり
足利将軍家を産み出した母体でもあった。

山科に本拠を持っていた公家の勧修寺一族は
綾部市の上杉の里にも庄園を持っていた。

足利尊氏の母は上杉の里で育った勧修寺系の
公家の姫様であり、これが彼女の実家である
上杉系の勧修寺一族(上杉氏)が足利に次ぐ
名門のひとつとして活動する基礎となった。

尊氏は丹波で倒幕(六波羅攻撃)の旗を上げる。
その後、建武政権に反抗し
楠木正成に負けるたびに丹波に逃げ込んだ。
これは、母系の縁による。

貴人といえば
信長が足利義昭を奉じて上洛したとき
前関白、近衛前久も丹波に逃げ込んでいる。
こちらは妹が赤井直正(黒井城主)
と結婚していたから。

前久(さきひさ)が黒井で住んでいた館(興禅寺)では
すこし後に春日局が誕生している。

彼女も母方の祖母が古今伝授を伝える
上級公家、三条西家からきていて京都との縁は深い。
父が明智家の家老であったため身の危険があったが
本能寺のあと、彼女は三条西家に保護され
そこで教養をつんで江戸城大奥の最初の支配者となった。
三条西家は播磨國風土記を伝えた家としても知られる。

黒井城は戦国有数の山城で丹波の国の西端に位置する。
城からは丹波国東端の愛宕山が望見できるそうである。
丹波西三郡、天田(あまだ)何鹿(いかるが)氷上(ひかみ)
に勢力を伸ばした赤井氏は黒井城に拠って
信長が派遣した明智光秀軍と激戦を繰り返した。
黒井城落城にまつわる話として「貂の皮」がある。

姫路の西にある龍野の殿様として知られる脇坂家の初代が
秀吉の降伏勧告の使者として黒井城を訪れたとき
城主、赤井直正は、その若者(脇坂安治)が気に入って
貂の皮を与え、それが脇坂家の
家宝になったという話である。

初期の脇坂氏は代々、淡路守を名乗る。
初代、安治は淡路島(かつての三好氏の水軍の中核、安宅水軍)
をはじめとする東瀬戸内の水軍衆を率いて
秀吉の朝鮮出兵に従軍し最初の海戦では大敗したものの
その後は朝鮮水軍の名提督、李舜臣の天敵ともいうべき活動を続けた。 

脇坂氏は淡路洲本藩、伊予大洲藩、信州飯田藩の藩祖でもある。
安治は大阪の陣への参加を拒否して京都で隠居し西洞院に住んだという。


明石国造

2009年8月27日 地歴
明石国造
明石国造
写真は明石国造家の奥津城といわれる
五色塚古墳(神戸市垂水区)
全長約200m 兵庫県最大の古墳。

明石国造は兵庫県を代表する古墳時代の王者のひとりで
最盛期の勢力圏は高砂市から尼崎市に至ると推定されている。
但し、その勢力は灘筋と呼ばれる海沿いの地域に限られ
少し内陸部に入ると別の勢力があったようである。
神戸圏は山側、海側(灘筋)という分かれ方をする。
江戸時代の灘五郷でも海側の酒造地帯が天領で
山側には尼崎藩領が多く分布していた。

西摂大観によると
明石国造は武位起命に始まる。
彼は鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアエズ)の弟にあたる。
かつての神戸市葺合区の名前は
フキアエズを祭る神社(にのみや 二宮)にちなむ。

なお、武位起命は普通には「たけくらいおき」と読まれるが
「むいき」と読むと明石海峡北方の地名、三木に近くなる。
「み」というと神または水、海であり
「き」は新羅を「しらぎ」と読むように国を意味するなら
「みき」は神国または海国、水国になる。

武位起命の子が有名な椎根津彦(シイネツヒコ)で
航海者、海導者として尊崇された。
珍彦(うずひこ)、大倭直(やまとのあたえ)とも称され
大倭(やまと)国造の祖でもある。
神戸市東灘区、阪急神戸線
岡本駅北方の山に祭られている。
灯台としての役割を持っていた
「灘のひとつ火」があった神社である。
江戸時代でもなお航海者たちは
この火をたよりに大阪湾を航行したという。

この保久良(ほくら)神社から
まっすぐ南に下った阪神本線、青木(おうぎ)の浜は
彼の上陸地であったという伝説が残る。
神武東征は全体として「水軍(海賊)が大和を制した」
というストーリーなのだが、明石国造の一族が
倭国造になったというのは、ある意味でそれと重なる。

明石国造はシイネツヒコのあと
矢代スクネ(足尼)をへて、応神朝の都弥自スクネに至る。
都弥自は「はやし」と読んだのだろうか。
漢字は、その一部が音を表すという構造を持っているが
都の部首、「者」は「ハ」と読めなくもない。
五色塚を築くのはこの頃か。
そのあと大和連始祖、室屋大連公男御物スクネをへて
林スクネ(林連)や海直溝長(あまのあたえ)の名がみえる。
称徳朝に至り大和赤石連の姓を賜る。

この地域最大の神社、海神社(かいじんじゃ)は武位起命と
ウガヤフキアエズ兄弟の共通の祖先、海神(ワタツミ)を祭る。
延喜式では海神に「たるみ」というふりがながある。
「み」が神であるとすると、「たる」が海ということになる。
垂水区は海神区なのですな。

「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」
志貴皇子(しきのみこ)によるこの歌も、かつての明石郡垂水の
自然を詠んだだけの歌ではなく「海神の子孫たちの春がきた」
と言っているのかもしれませぬ。

旧明石郡内の延喜式内社 案内

明石川流域に
春日社と同體という宇留(ウル)社
「赤石(アカイハ)」ともつながっていそうな赤羽(アカハ)社
可美眞手命(ウマシマデ)を祭る物部社(現在は住吉社)がある。
(赤石はアカシとも読み、明石の旧字)

「いわばしるたるみ」とも読めそうな
伊和都比賣社と海神社。
「いわひめのやしろ たるみのやしろ」
海神社の夏祭りは瀬戸内三大船渡御のひとつといわれる
勇壮な海上パレートである。

不思議な祭り、オシャタカ舟神事を伝え
通説は「漁師の守り神」というが
名前の意味が不明の
弥賀多々社(ミカタタ 現在は戎社) 
イザナギ、イザナミをはじめとして
多くの神々を祭っているので
「神が多い」とも読んでみたい。

明石から少し西に行くと
謎の神、日岡坐天伊佐々比古(アメノイササヒコ)
を祭りヤマトタケルの母の実家という伝説を持つ
日岡社がある。 陵墓としては日岡陵 ひおかのみささぎ)

尼崎市唯一の式内社、伊佐具神社に祭られる
五十狭城入彦尊は通常、イサギイリヒコと読むが
「狭」は「サ」と読んでもいいかもしれない。


全然、関係ないですが水産業の雄、マルハの「ハ」は
この記事に出てくるハヤシノスクネの本拠地、林の「ハ」です。
江戸時代に明石の魚を大阪に運んで巨利を積んだと聞きます。

http://filologos.diarynote.jp/200904212045093319 明石氏





関が原における蜂須賀家の行動は非常にめずらしい。
当主の家政(小六の子)は阿波を豊臣家に返上し、出家して蓬庵と名乗る。
家政の息子、至鎮は数十騎で東軍に参加。
戦後、本領を安堵され江戸幕府における阿波藩の初代となる。
親子で分裂したのは真田(昌幸、信之)だけではなかった。
家康は明石から阿波にかけて長男の子孫を配していた。
幕末の蜂須賀家は外様でありながら完全に将軍家の血筋になるが
その布石は幕府成立の最初から家康によって打ち込まれていたのである。

17世紀になると、明石海峡から鳴門海峡を渡る幕府方の閨閥が形成されていた。
明石藩初代の父、小笠原秀政が家康の嫡男、信康の娘と結婚
この結婚の長女(敬台院)が徳川時代の阿波藩初代至鎮(よししげ)と結婚。 
秀政の長男(忠脩)が大阪夏の陣で戦死したため、次男が小笠原家の当主となり
明石城を築いて明石藩の初代となる。
つまり明石藩初代の姉が阿波藩初代の姉ということになる。

さらに至鎮の子、忠英(ただてる)の室は小笠原忠脩の娘。
至鎮の子光隆の室は小笠原長次の娘。
ということで江戸時代の小笠原と蜂須賀の両氏は
家康の長男の血筋を軸として二重三重の血縁関係を結ぶ。


明石氏 続編

2009年8月16日 地歴
領主としての明石氏は秀次事件で断絶してしまいます。
この事件にまきこまれた人たちの詳細も闇に葬られたようで
戦国末期に活躍した明石氏の史料も不足気味です。
江戸時代の地元にも「ここに大名の城があったそうな」
というぐらいの記録しか残っていない。

城山□申所天文年中明石修理輔殿□申大名之御城跡之地申傳候
(宝永元年 吉田村指出帳 安永7年再製 文化4年写)

明石氏の系図について最も信頼できるものに
親族でもある福岡藩の家譜があります。
貝原益軒が1678年に三代藩主、黒田光之に献じたものです。

明石城主明石宗和の娘が姫路城主黒田(小寺)職隆に嫁いで
産まれたのが黒田孝高(よしたか、如水)とされています。

秀次事件に連座した明石氏最後の当主、則実は黒田孝高の従兄弟にあたります。
別の系図では、則実(のりざね)の叔母(父の妹)が石田三成と結婚しています。
そして、この結婚による三成の子孫は明石郡下皆発に成末氏を名乗って
土着したといいます。

西日本のもうひとつの明石氏として岡山県の明石氏があります。
浦上氏、宇喜多氏の重臣として活躍した明石氏は赤松氏の系統と思われます。 景行、景憲(源三郎)、景親、景季をへて大阪の陣で有名な掃部頭全登(かもんのかみ てるずみ)で終わります。

http://filologos.diarynote.jp/200904212045093319 明石氏


岐阜県のルドン・コレクションを展示中。
ルドンは印象派と対立した象徴派(シンボリズム)の大家
フランスの国宝級の画家だそうで
ニューヨークやパリの大美術館が彼の作品を競って集めている。
日本の地方美術館が数百点ものルドン作品を所蔵しているとはどういうこと??

彼は精神の暗黒、暗いトンネルを通過し、晩年は素晴らしい境地に至ったと評されます。
展示にはブッダを描いた絵などもありましたが
あれは「降魔成道(ごうまじょうどう、誘惑を振り切って悟りをひらく)」という観点から描いているのか、仏教の神秘思想である密教に興味があったのかそのあたりはわかりませんでした。

今回の姫路の展示は暗い時代の作品(ルドンの黒 Noir)が中心でしたが
晩年の作品もまたいろいろと見てみたいものです。
象徴主義は人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現しようとするもので
黙示録やカバラとつながっていそうです。
展示には薔薇十字のリットンとの関係についての説明がありましたが
その部分はよくわかりませんでした。

Minstrelさんのブログ記事
http://minstrel1209.blog62.fc2.com/blog-date-20090813.html




応仁の乱から信長の登場まで
畿内動乱のなかで最大の勢力を誇ったのは阿波三好氏でありました。
最初に畿内で頭角をあらわした之長以来、滅亡まで五代にわたります。
戦国期の大規模な勢力としては後北条氏とともに長く続いたほうです。
戦国時代の畿内の英雄、三好長慶が畿内制覇の道を歩き始めたのが西宮であったことから
最初は地元の西宮越水城主のひとりとして興味を持ちました。

三好氏は、いろいろ調べてみると後の織田・豊臣政権や阿波蜂須賀藩に残した遺産にも大きなものがあります。 安土桃山風の絢爛たる城郭建築は三好政権時代にはじまり、江戸時代の阿波藩における阿波踊りや藍、材木、船を基盤とする経済力は戦国期の遺産をついでいます。 蜂須賀家政よりあと、阿波藩では藩士が阿波踊りを踊るのは禁止だったし、庶民に対する阿波踊り禁止令もしばしば出されている。 庶民とともに踊ったといわれる三好の殿様たちとは違うようである。

三好氏は東瀬戸内最強の水軍勢力であり、瀬戸内の中央から西部を制した
村上水軍家とともに、歌を好み、歌にうたわれた海賊としても知られています。

大名としての阿波三好家の最後の当主、三好長治の辞世の歌
「三好野の梢の雪と散る花を 長き春(長治)とやは人のいふらむ」
これは、自分の名前と応仁の乱以来の三好氏の時代をかけて歌ったものです。

最初に実力者として名前をあらわした之長は落首で
「はげしかりし嵐の風の音たえて、今をさかりのみよしのの花」
「はなざかりいまはみよしと思うとも、はては嵐の風やちらさん」(『細川大心院記』)
とうたわれました。

三好氏の絶頂期を生きた三好長慶は軍事だけでなく風流にもすぐれていたといわれています。
貴人の宴に相伴する人々を御相伴衆(しょうばんしゅう)といいますが
宴を愛した長慶も役職として相伴衆(管領に次ぐ地位)のひとりでありました。
彼には華やかな印象がありますが、今に残る彼の歌には、さびしいものが多い。

「難波がた入江に渡る風さえて盧の枯葉の音ぞ寒けき」

「薄(すすき)に交じる蘆(あし)の一むら古沼の浅き片より野となりて 」

大阪福島区の野田春日神社には、歌を詠む三好一族の絵と
三好長慶が奉納した歌が残っているそうです。

「むらさきの ゆかりならぬと 若草や 葉すえの露の かかる藤原」

日本の藤の学名は野田藤というそうです。
歌は、この野田藤を詠んだものです
「なにわのみやび野田のふじ」より

http://filologos.diarynote.jp/200908070719547279  三好長慶と西宮



三好長慶と西宮

2009年8月7日 地歴
越水城の主として西宮の殿様でもあった、三好長慶は、1522年生まれ。
信長より一回り上。11才にして三好宗家の当主となる。
12才のとき石山本願寺の法主、証如光教(当時18)と面談して気脈を通じた。
これ以来、三好長慶は浄土、法華、禅宗、キリスト教のすべてと友好関係を保った。
このあたりはナントの勅令を発布したブルボン王朝の創始者アンリ4世にも似る。
(余談だが西宮市はアンリ4世の故郷であるフランス南西部の県と姉妹提携をしている。)
http://filologos.diarynote.jp/200803181602370000/
長慶は堺に禅宗の大寺をつくり、京都の墓は禅宗の大徳寺なので
個人的には禅宗を好んでいたようにも見える。
大徳寺は後醍醐天皇の庇護を受けたため足利氏には嫌われた。
三好氏は足利氏と仲が悪かった大徳寺と親しかったのである。

西宮から神戸にかけての戦国地図では
国人領主と自治組織の対立において
自治側が勝利をおさめる。

武庫川沿いに本拠をおき
築城にもすぐれていた国人領主 河原林氏と
東灘に強大な勢力を築き
一万人に近い動員兵力を誇った自治組織(本庄惣庄)
の対立があり 三好氏が惣庄側につく構図になる。
三好氏の自治に対する姿勢は
信長が一揆を徹底して殲滅(根切り)したのに比べると
支配というより連携と言ってもよいほどのおだやかさである。
三好氏には長慶の曽祖父、之長以来、一揆側と気脈を通じる気風が多分にある。

長慶は天文8(1539)年、正式に室町幕府から摂津国の大名として認められる。
このころの摂津は高槻を中心とする上郡(かみごおり)、兵庫県東部の
下郡(しもごおり)、現在の大阪市を中心とする欠郡(かけごおり)に
分かれていた。 その意味では摂津西半国の大名になったというほうが正しい。
このとき彼は、まだ、十代後半である。

ここに長慶は本国阿波と隣国(讃岐と淡路)に加えて現在の阪神間をその版図に加え
畿内布武(上方の覇者)に向けてスタートをきったのである。
三好氏の城下町として西宮は繁栄し、その繁栄は現在にも続いている。

それはあたかも三好信吉(豊臣秀次)の城下町であった近江八幡が
城下町でなくなったあとも繁栄を続けた歴史に
及ばずながら似ているところでもある。

信長以前に最も天下に近づいた三好氏のスローガンは
「理世安民(よのなかを ととのえて たみを やすんずる)」。
軍事的な信長の「天下布武」、家康の「厭離穢土 欣求浄土」の宗教性と比べると
その政治的な雰囲気が際立つ。

三好氏の紋章、三階菱は小笠原氏の紋章といわれるが
もともとは、加賀美遠光にはじまる加賀美氏の紋章であり、
「王」の字が含まれているといわれる。
紋章は古墳時代以来の豪族の住まいである高殿(たかどの)を
象っているようにも見える。
堺に幕府を成立させた三好元長は高殿を好んだそうな。
戦国末期にはなひらく城郭建築、天守閣は高殿を祖形としていると思われる。
小笠原氏に関係する城郭に松本城、明石城、小倉城がある。
そして現在の東京にある小笠原伯爵邸はスペイン・イスラム風の建築。
小笠原流の好みは礼法だけでなく建築にもあるかもしれませぬ。

加賀美遠光は清和源氏の大きな流れをなしている
新羅三郎の系統である。(もうひとつの流れは八幡太郎の子孫)
遠光のの子供たちは、末子相続をとり
四郎が加賀美氏を継ぐ一方で、兄たちからは
小笠原二郎(長清)、南部三郎と大名を輩出した。

小笠原氏は信濃と阿波の守護大名となり
長房にはじまる阿波小笠原氏は美馬郡、三好郡を
本拠として鎌倉時代の阿波国に君臨した。
南北朝の動乱期には信濃の小笠原宗家が北朝を支持したのに対し
阿波の小笠原氏は常に武家方というわけではなかった。
特に沼島(ぬしま)の小笠原氏は新居大島の村上水軍や忽那諸島の勢力と
ともに懐良親王を九州に運び、南朝方の征西府成立に大きく貢献している。
室町幕府の阿波守護として進出した細川氏と小笠原氏の関係は複雑である。
阿波小笠原氏の直系ではないとはいえ、小笠原氏の勢力の後継者である
三好氏が細川氏と何度も手を結びながらも結局は複雑に対立してしまうのも
南北朝以来の、かなり根の深い対立関係が背景になっている。

美馬郡、三好郡が古墳時代の粟(あわ)国造の本拠地であったことから
小笠原氏や三好氏はこの勢力をも承継し、外来の細川氏と対立した
との異説もある。

南北朝合体のあと小笠原氏の勢力を継いで阿波の実権を掌握する三好氏は
三好長慶の曽祖父、之長の時代に京都の政界に登場し、
父、元長は堺幕府の屋台骨をささえ、ついには長慶に至って
畿内と東瀬戸内を支配する上方の覇者に成長する。

http://filologos.diarynote.jp/200908110031455127  三好氏の長い春

http://filologos.diarynote.jp/200905032245131690  戦国時代の西宮

http://filologos.diarynote.jp/200906230044544316  利休の娘と三好長慶

http://filologos.diarynote.jp/200812210614454802  西宮史

亜硫酸塩
水道水に塩素を入れるように
ワインにも製造段階で亜硫酸塩を入れねばなりません。
入れなければ、すぐ雑菌の繁殖が始まります。

ワインの亜硫酸の危険性についての議論では
安全説が主流ですが、それは亜硫酸にアレルギー
のないひとが、正しく飲んだときにかぎる可能性が大です。

日本の亜硫酸に対する規制は極めてきびしく
一般の食品に対する食品衛生法の規制値は30ppmですが
ワインに関しては350ppmまで認められています。

これは、かつてワインは高価なもので
一度に飲む量が限られていた時代に貿易相手国に
配慮して作られた基準が今に生きているものと思われます。

ディジョン・マスタード用に特別につくられた規制値が500ppm
ですから一度に消費する量の大小は規制値の制定に
かなりの影響を与えていそうです。

今や日本のワイン消費量は昔とは桁違いです。
今こそは水道水から塩素を飛ばすように
亜硫酸を飛ばすワインの飲み方も理解され実行されねばなりません。

ワインの亜硫酸は、平たく言えば亜硫酸ガス(SO2)を水に溶かしたものです。

ガスとしての亜硫酸は猛毒で許容量は数ppm 、数百ppm は
致死量にあたりますが、水に溶けるとその毒性は
数十分の一以下にさがると言われています。

それでも毒は毒です。
ともにモリブデンを成分とする酵素とはいえ、
亜硫酸の解毒にはアルコール解毒酵素とは微妙に違った酵素が
必要なので、アルコール解毒力に個人差があるように
亜硫酸解毒力にも個人差があるであろうと仮定しておいた
ほうが安全です。

酒に強いから、亜硫酸にも強いかどうかはわかりません。

さて、亜硫酸を飛ばす方法ですが
これは皆さんよくご存知のことばかり。
デカンタージュ、大きなグラスに入れて
グルグル回す、そして放置です。

飲む前に栓を抜いて、かなりの時間放置することを
はじめとして、これらの儀式はワインを安全に飲むための
重要な意味があったものと思われます。

デカンタージュも巨大なフラスコ(写真)のようなものに入れて
大きく振り回すやり方は、かなり効果があるかもしれません。

日本で売られているワインは亜硫酸が100ppm±50ppm
ぐらいのものが多いようなので、儀式によって50ppm以下
にしてしまえばよろしいかと考えます。

亜硫酸の危険については、特に喘息を持っている方は要注意です。
皮膚にアレルギーのでる方も注意しましょう。


お涼さん

2009年6月23日 歴史物
お涼さん
お涼さん
「りょう」の母親は
短期間ながら堺に幕府をひらいた実力者(三好元長)の娘。
元長のあとをついだ三好長慶は
最初に畿内を統一する戦国大名になります。
「りょう」は戦国の一時期、西宮の殿様でもあり
後には畿内近国(上方筋)を統治する大大名になる
長慶の姪(妹の子供)にあたります。
但し、天地人の「お涼」さんは
作者の創作でありましょう。

長慶には有名な肖像画があります。
大徳寺・聚光院蔵(聚光院の名は長慶の法名に由来する)。
礼装の下に着ている華やかな辻が花のような着物は
木村佳乃、演じる「お涼」と通じるところもあり。
二人ともイタリアン・カラーでございます。

「りょう」の父、千利休については最初に上方を制した戦国大名
三好長慶の義弟で、後の天下人には茶頭として仕えた。
常に上方の覇者に近いところにいたひとなのです。
利休にはじまる京都 千家の墓所も大徳寺の聚光院。

現在の裏千家、表千家の祖、宮王四郎左衛門(小庵)に
茶の手ほどきをしたのも三好長慶の実弟で
阿波の殿様だった大名茶人 三好実休(じっきゅう)でありました。 
三好家と千家の仲にはただならぬものがあります。

そして、近江八幡を築いた関白秀次も豊臣秀次と名乗る前の名は三好信吉。 
東瀬戸内と畿内の覇者、三好の流れは利休や明石氏(則実)を介して
豊臣政権につながっていきます。 

秀次については、いろいろ言われるところがありますが
近江八幡を見るかぎり、なかなかバカな殿様とは言えません。
利休の死、秀次の処刑と則実の殉死などは
古代以来の水行勢力として朝廷への影響力を維持してきた
東瀬戸内の政治面での影響力後退のひとつです。

http://filologos.diarynote.jp/200905032245131690 戦国時代の西宮

http://filologos.diarynote.jp/200904212045093319 明石氏

http://filologos.diarynote.jp/200508191801530000 明石史





霜満軍営秋気清

数行過雁月三更

越山併得能州景

遮莫家郷憶遠征


上杉謙信


二星何恨隔年逢

今夜連床散鬱胸

私語未終先酒涙

合歓枕下五更鐘


直江兼続


謙信の詩は遠征軍が
能州(能登国)を攻め取ったときのもの

兼続の詩は男女の夜を徹しての合歓

チャイ

2009年6月10日 酒仙茶藝
チャイ
駅前のスーパーでチャイを売っていた

水とミルク(6:1)を準備し
小さく固めた茶葉と砂糖をいれて4分間煮る。
ジンジャーとカルダモンを中心とした
チャイ用のスパイスミックスを少々入れて飲む

http://www.eikokuya-tea.co.jp/
Granulated Black Tea
Broken Orange Pekoe
Putharjhora Tea Estate

Boiling water : Milk = 6:1
Boil for 4 minutes

a piece of fresh ginger
a few pods of cardamon
may be added



マトン ビリアニ
水曜限定のランチメニュー
ハイデラバード風マトン ビリアニ

マドラス キッチン2 三宮

繊細な味
骨付の羊肉から いいだしが出ている


戦国時代の西宮の殿様 三好氏
写真は戦国時代の西宮越水城主、三好氏の旗印 三階菱。 
江戸時代の初期に松本城や明石城(喜春城)を築いた
小笠原氏の紋章であり、三菱財閥を創始した岩崎家の紋章でもある。
三好氏の家紋としては三階菱のほかに井桁紋や釘抜紋も使用される。

天文二年(1533) 九月 河原林というものが三好方の篠原衆を破り
越水城を占拠したが翌日には大坂の中島に撤退した「細川両家記」
「私心記」によると、河原林氏は、この時期(天文二年 八月)
細川氏の武将、薬師寺氏とともに中島で活動している

戦国時代の西宮には二つの勢力があった。
武庫川沿いの瓦林城を本拠とする国人領主、河原林氏と
阿波だけでなく摂津の守護代でもあった三好氏である。
両者は室町将軍家や管領細川家の内紛ともからんで
非常に複雑な抗争を繰り広げるが最終的には
三好元長が赤松氏、明石氏を味方につけて細川高国を滅ぼした
「大物(だいもつ)崩れ(1531)」で河原林氏も衰亡する。
その十年あまり後、元長の長男、三好長慶が
三好宗家の家督を継いだあと十代で曽祖父ゆかりの越水城に入り
ここを拠点として畿内統一をなしとげていく。
海上では三好の水軍は撫養(むや 鳴門)と淡路島を本拠地として
東瀬戸内の制海権をにぎり
堺の安全を保障して、その繁栄を軍事面でささえていた。

三好長慶は短い間ではあったが信長に先んじて最初の天下人にもなった。
長慶を「日本の副王」と呼んだ宣教師ガスパル・ヴィレラは
長慶の支持を得て京都で布教することができたのである。

最初の天下人、三好長慶は20代を越水(西宮)で過ごした。
「はるばるとおまへの沖を見わたせば雲ゐにまがふあまのつり舟」
という歌で有名な、その場所は現在、大阪平野を
一望のもとにおさめる高級住宅地である。
将来を嘱望されていた長慶の跡継ぎ(義興)も越水城で産まれ育った。
その後、義興は高槻芥川山城(三好山)の城主になるが
二十歳そこそこで急死する。 
優秀な兄弟を短期間に次々と亡くして気落ちしていた長慶は
息子の死で心を病み河内飯盛山城で四十過ぎで没する。
相次いだ三好家重鎮の死には松永弾正久秀による謀略が古くから疑われている。 
長慶の法名は「聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門」
京都、紫野大徳寺の聚光院は彼の菩提を弔うべく創建されたものである。
聚光院は千利休から始まる京都 三千家の菩提寺でもある。

高槻には「三好芥川城の会」があり
上方筋に覇をとなえた郷土の英雄として三好長慶を顕彰していますが
西宮市民は長慶を忘れはてていますねえ。

長慶は武人として優秀だったが、宴(歌)と茶を愛した文人でもありました。
越水城でも宴は多くおこなわれたでありましょう。
後世、西宮が大酒造地になるのも長慶のおかげかもしれませぬ。

長慶には華麗な辻が花のような着物を着た肖像画が残っている。
長慶の父、元長は無礼講で庶民を城に招きいれ
ドンチャン騒ぎをするのが好きな人だったという。阿波踊りの起源だろうか。
長慶は元長とは違い静かなひとだったようである。
千利休とも幼少のころから交友があったともいわれる。
長慶の妹が利休の正室(宝心妙樹)である。
活動的だったといわれる利休の娘たちは「ちょう」を除いて長慶の血縁(姪)にあたる。
「りょう」「きぬ」「ぎん」「さだ」という名前がみえる。

この頃、越水城から南へ、かつては入り江であった
湿地帯を横切って札場筋がつくられ
西宮戎の門前町は近畿地方最大の戦国大名の外港となった。
後に城が取り壊されたあとの江戸時代にも西宮の商業都市としての繁栄は続き
尼崎藩の経済を支えていた。

三好氏は小笠原氏の同族とされる。
徳島県三好郡、美馬郡からはじまって東瀬戸内と近畿地方西部の大半を制した。
淡路島の安宅、讃岐の十河(そごう)とも同族関係にある。
淡路の水軍を指揮していたのが長慶の実弟、安宅冬康である。
明石大橋ができる前、西宮と淡路島の間にはフェリーが就航していた。
淡路・阿波の人形浄瑠璃と西宮のつながりも三好つながりがあるかもしれない。
戦国期には浄瑠璃の源流となった西宮の戎舁(えびすかき)が盛んになり
京都御所でも上演されたようである。西宮戎には傀儡師、百太夫を祭る摂社がある。

天井川(仁川)の川底(百間)を底樋(そこひ)でくぐる
百間樋用水ができ、西宮の農業生産が飛躍したのもこの時期である。

http://filologos.diarynote.jp/200908070719547279 三好長慶と西宮

http://filologos.diarynote.jp/200812210614454802 西宮史

http://filologos.diarynote.jp/200906230044544316 利休の娘と三好長慶

http://filologos.diarynote.jp/200508191801530000 明石史


昔ながらの凍り豆腐
今の高野豆腐と比べると
絹ごしと島豆腐ぐらいかたさが違う。
熱湯でふやかし、ギュッとしぼってから煮る。


肺を潤す

2009年4月27日 減肥薬食
肺を潤す
季節はずれの冷気は気管支や肺によくない。
肺を潤すには百合根がよいそうな。
ユリネの旬は11~2月。
秋冬の野菜で今は手に入れにくい。
ひとつのゆり根を作るには3年かかるそうだ。

漢方でいう肺は肺臓だけでなく、気管支や皮膚を含む。
梨も潤肺によいらしいが、これも9月から11月にかけてのもの。
今は缶詰か瓶詰めしかない。

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